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この長編小説、「エメラルドに陽は落ちて」は、フィクションです。初めて書いた小説で、寂れゆく故郷を思い、夢中で書いたのを覚えております。小説を書くきっかけになった、思いで深い作品です。

ダウンロードの後、じっくりとお読み頂ければ、好感に存じます。

 

 

 

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   エメラルドに陽は落ちて

 

 

 うねる波は、ごつごつとした岩場に打ち寄せ、人の声さえ呑み込んでいた。

「おーい! 今朝の漁は、どうだった?」砂浜の近くには、小さな船溜りがあった。鶴が、二つの羽を大きく広げた鶴の入江になっていて、活気が漲っている。その船溜りは、鶴の左羽の根元辺りにあった。

「どうもこうもねえ! 時化ていて、さっぱりだ!」

「そうか! 俺の方は、まずまずだ!」

 佐市は、船倉に作ってある水槽から、大きな真鯛を網ですくって自慢げに見せた。真鯛が、網の中で跳ねている。ライトグリーンの鮮やかな斑点が、くっきりと浮き出て、夜明けの海に映えていた。

 船溜りの近くには、唐人宿があって、佐市は、毎日釣った魚を、主にそこに卸し、生計を営んでいた。歩いて直ぐだった。

「今日も、唐船が入港しているし、女将は、喜ぶだろうな」佐市は、呟きながら歩いた。

「女将! 女将はいるかい!」

「だあれ?」

「なあんだ。佐いっちゃん」

 細い目を輝かせながら、襷掛けの色白の女が、奥から現れた。女中の、お美代であった。手伝いに来ている、まだ十八になったばかりの、近くの廻船問屋の娘で、女将の親戚筋にあたった。

「誰なの? 朝から騒がしいわね」

 あまりの騒がしさに、女将が暖簾を手で払い除けて、顔を出した。

「やあ! 女将・・・・・」

 お早よう、と言おうとした佐市は、自分の目を疑った。

「女将! そ、それは、一体どうしたんだい!」「あら、佐いっちゃん」

「・・・・・・・・・・」

「どうしたは、ないでしょう?」

絹の輝きを増した、見慣れぬ異国の、チャイナドレスに身を包んだ女将の姿は、佐市には、女神のように思えてならなかった。

女将は、佐市の前で回って見せた。「どう。似合うでしょう?」

「似合うか、似合わないか、御婦人に縁のない俺には、よく分からないね」

佐市は、無愛想に答えた。広い海の上で、魚を相手にしている佐市にとって、お世辞なんて上手く言えない。そんな佐市を、女将はいじらしいと思った。女将は、昨日夕刻近くに入港した唐船の船長さんに、お土産にと貰った事、乗組員の殆んどが、この宿に泊まっているという事を話した。

唐人宿『村上屋』の看板は、投錨地に面した、海岸通りに建てられている。二階建てで外壁には、こけが少し生えて、年代を思わせていた。中に入ると応接室があり、丸く高いテーブルに椅子が並べられて、見るからに異人さんを接待する作りである。部屋は、個別に区切られていて、可成な部屋数であった。代々、受け継がれて来た村上屋は、先代の旦那さんが亡くなり、今の女将が引き継いでいた。唐人の、知り合いや友人も多く、子供の頃からの顔見知りもあった。

竹篭の中の魚が、ぱたぱたと勢いよく音をたてて、跳ねている。

「今日も、生きの良い魚を、持って来てくれたの? どんな、魚かしら?」

 女将は竹篭の中を、興味深く覗き込んだ。そこには、釣りたての魚が、山盛りに入っているのが見える。

「全部貰うわ! こんなに、生きの良い魚だと、お客さんも喜ぶわね」と、女将は、佐市に微笑んだ。佐市は、頷いている。

「佐いっちゃんの、釣って来た魚だものね。生きが良いに、決まってるわよねえ」と言って、お美代は、竹篭を受け取り、料理の準備にと、さっさと奥の方へ消えて行った。

汗をかいた後の、お茶は美味かった。台所の方から、俎板を包丁で叩く音が、聞こえて来る。釣りたての、魚が入っているであろう味噌汁の匂いがしてきた。「お美代ちゃんの味噌汁は、格別美味いからなあ」以前お美代に作ってもらった味噌汁を、思い出していた。

女将に「有難う」と、お礼を言って村上屋を出た佐市は、何時ものように、金毘羅参りに出掛けた。菖蒲坂は、急傾斜で石ころだらけの道が、天まで続いているように思える。菖蒲坂を登り終えると、左手の方に、唐作りの寺院が見えて来た。どっしりとして、瓦の一枚一枚の色が、松の緑と対照的で、趣があり風格さえ感じられる。栄松山興禅寺である。

門を左横目に歩いて行くと、金毘羅坂が見えて来た。菖蒲坂よりも、もっと急傾斜で、石作りの階段は若い佐市にも登るのは、とても苦痛に思える。やっとの思いで、登り終えると、大きな鳥居が、目の前に現れた。寺ケ崎の高台に作られた、金毘羅神社の鳥居は、赤く塗られて青空を突き刺すように建っている。金毘羅神社には、海の神様、恵比須様が祀られていて、参拝する人が絶えない。

豊漁を願い、参拝した後で出漁する漁師、帰って来てから参拝する漁師やその家族、船主等が多かった。

子供の手を引く家族連れが見える。お賽銭箱に小銭を投げ入れ、吊り下げられた鈴を鳴らして手を合わせた。色黒のがっしりとした体格の男が、振り向いた。佐市には、見慣れぬ顔であったが、お互いに、会釈を交わしていた。

お参りを済ませた佐市は、金毘羅神社境内の広場高台から、坊の浦を見下ろした。小さな漁船、廻船問屋の貿易船や錨を打った唐船、入港して来る遣唐使船の姿が、手に手を取るように分かる。湾の中程には鶴ケ崎の細長い浅瀬が、海面に浮かび上がっている。引き潮であった。

「これより、入唐道(にっとうどう)と言うなり!」遣唐使船に向かって、佐市は呟いた。

「唐の湊に、ようこそ!」

爽やかな風が、佐市の膚を掠めて行く。眺めは、爽快だった。

花菖蒲の花が、川べりに咲き乱れているのが見える。あちこちに自生しているので、菖蒲谷と云う地区の名前が、いつの間にか付いていた。その菖蒲谷の一角に興禅寺はあって、お寺の菖蒲園には、見事な花を毎年咲かせていた。門外不出の花菖蒲である。

金毘羅坂の階段を下りて元の道を戻ると、興禅寺の修業僧が、ひとりでお寺の周りを竹箒で掃いている姿に遇った。

「龍山和尚は、居るかい?」

「ああ〜、佐市さん。住職は、今お経を読んでおられますが、何かご用でしょうか?」修業僧は、佐市の目を見ながら応えた。

「いや、なにね。住職は、どうしているかと思いましてね」

「相変わらず、元気にしていらっしゃいますよ。良かったらどうです。中に入ってみられては?」と、修業僧は、笑顔を浮かべた。

「それじゃあ、住職の顔でも拝んで帰りますか」

「さ、どうぞ」と、修業僧は手招きをする。石段を数段上り、古びた石垣を通り門の中に入ると、観音堂が見えて来た。四間四間の、唐戸である。赤や青の色彩も鮮やかで、龍の彫り物が大きく口を開け、今にも襲わんばかりに、くっきりと浮き出て見えている。唐の有名な彫り師が、わざわざ彫りにやって来たと伝えられている作品で、かなりな価値の代物であった。材木も全て、唐から運んで来た唐木で、全てが唐作りであり豪華さを感じる。栄松山興禅寺は、唐客の香華院として唐人が建設したものであった。

 中庭を本堂の方へ進んで行くと、水を打ったような静まり返った寺院に、お経を読む声がしている。佐市は、一瞬立ち止まった。お経の声は、佐市の動きに合わせたかのように直ぐに止んだ。騒々と言う声と共に、見慣れぬ修業僧らしき人達が、本堂から揃って別の部屋へ移動しているのが見える。<何だろう?> 修業僧が、住職を呼びに行く姿を振り向きもせずに、佐市は、その部屋の方へと近づいて行った。

「きょうは、やけに人が多いなあ」佐市は、小さく呟いた。

「佐市か。そんな所で見てないで。さ、こちらへ、おいでなさい」住職は、騒がしい部屋の方を覗き込んでいる佐市を、お寺の中へ迎い入れた。

部屋の欄間に、佐市は目を奪われた。何という贅沢な作りなのだろう。虎や猿の彫り物が、何かを話し掛けているような気さえしてくる。部屋を見回しながら、住職の前に、静かに正座をした。騒々しい先程の部屋が気になる佐市である。

「あの者達かな? 遣唐使船や貿易船に、乗る為に船待ちしている者。唐船に、便乗する為に、いずれも船待ちしている者達じゃ」

「すると、あの方達は遠く、唐へ行かれるのですか?」佐市は、何故という意味を込めて、住職に尋ねた。

お寺の周りを竹箒で掃除をしていた先程の修業僧が、部屋にお茶を運んで来て、そっと二人の前に出してくれた。会釈する佐市である。

「そうじゃ。あの者達は、禅僧の修業に行く者、唐へ建築学、漢方医学等を学びに留学する者達じゃ」

住職は、力を込めて続けた。

「あの者達が、再びこの興禅寺に戻って来るには、五年は裕にかかるであろう。いや、途中で嵐に遭い、亡くなる者も出るであろう。しかし、あの者達は、唐と云う国をひたすら目指すのじゃ。己れの目標に向かって・・・。それが、あの者達の使命とも言える」

住職は目を瞑り、深い溜め息をついた。

「何故、彼らは危険を侵し、命を賭けてまで、果てしない国、唐へ行くのでしょうか?」

荒波を乗り越え、しかも命を賭けてまで学ぶ必要があるのか、佐市には、どうしても納得のいかない事であった。漁に出て、魚を釣って来れば、けっこう食べていける。食うには、困らない。

「誰の為に、学ぶのでしょう?」佐市は又、怪訝そうに聞いた。

「あの者達が、多くを学び、再びこの興禅寺へ帰って来れば、人の為世の為にもなり己の為にもなる。学ぶと云う事は、自分を研く事でもあるのじゃ」住職は、佐市に諭すように続けた。

「私利私欲があれば、命を賭ける事など出来はしまい」

「うむ〜」と、佐市は、小さく唸った。全くその通りだと思った。

「どうじゃ、佐市。明日からここで、あの者達と一緒に学んでみては?」

 住職は、佐市の目蓋を覗き込むように聞いた。それは、ここで明日から、学べと言っているようにも聞こえる。

佐市は、「はい」と言わなければならないような状況だった。

「そうか」と言って、住職は大きく頷いた。畳の上に置いてあったお茶碗を口元に運び、一口、ゆっくりと啜る。

有無を言わせない、暗黙の了解である。

早速、佐市は別の部屋へ案内される事になった。

細くて長い縁側が、続いている。庭は、良く手入れされていて、竹箒で掃いた後が残っている。赤い牡丹の花が、とても綺麗だと佐市は思った。痛み止めの漢方薬としても使用されていて、他にも沢山の薬草が植えてあった。近くの漢方医や遠くは肥後の城下町から、それら薬草を求めて興禅寺を訪れる人は多かった。

案内された部屋に入ると、畳の上に長い机が、縦に三列並べられていて、そこには、先程住職が、話してくれた人達や修業僧達が座っている。佐市は、何やら熱気のようなものを膚で感じとっていた。

「明日から、そなた達と、ここで暫らく学ぶ事になった、佐市じゃ」

畏まっている佐市を、部屋の前の真ん中に誘い、住職は皆に紹介した。知っている事等を、佐市に教えてあげるようにも告げた住職は、静かに部屋から出て行った。

「佐市さん! ここに座るといい」

顔見知りの修業僧、覚念であった。手で招き、机の上を指差した。

 誘われるままに覚念の、隣に座ってみた。佐市には畳が、やけに堅く感じられる。緊張のせいだろうと掛け軸に目をやり、心を落ち着かせてみた。それでも、心臓の高鳴りは止まなかった。それどころか、明日からここで学ぶ事を考えると、不安になって来るのである。

興禅寺を出た佐市は、住職の言った言葉を思い出していた。重く佐市の心にのしかかり、唐を目指そうとする人々の熱き思いが伝わって来るようでもあった。

見上げた空は、雲ひとつ無く青い。大きく両手を広げ胸一杯に、空気を吸った。佐市にとって、あっという間の出来事のような気さえした。

 漁にも出なきゃならないし、興禅寺にも通わなきゃならない、<忙しくなるぞ!>と、佐市は、心に呟いていた。

 

 

 

 部屋は、広々としていた。石畳の庭には小さな池があり、大きな鯉が群れるように泳いでいる。庭の松の木は、手入れしてあり優雅であった。

「梁さん。長い船旅、大変お疲れでしたでしょう。さ、ゆっくりと、お寛ぎ下さいまし」

「紗江! お酒を、お出しして」

 坊の浦の豪商、寺田虎吉である。豪快な名前ではあるが、背が高くスリムな感じで、名前とは似ても似つかぬ、虫も殺さぬおとなしい男であった。

 特に、坊の浜と呼ばれているこの地域には、白塗りの壁で作られた蔵屋敷が至る所にあって、商人の町を形作っている。豪商や廻船問屋達が、大勢住んでいた。門の外へ出ると、湾の入り口の中程に向けて、石畳の道路が一直線に作られていて、出入りする船がひと目で分かるようになっていた。どこの石畳の道路も、そうだった。

 九州の西南端に位置する、薩州坊津は、坊の浦、泊浦、久志浦、秋目浦、今岳、栗野、清原に別れていて、それぞれが点在して町を作る。中央より遠く離れ、その経済を支えている貿易港として、特殊な環境にあった。坊の浦は、坊の浜、上の坊、中坊、下坊、上中坊、門前町に分かれている。それは、僧侶が上陸する砂浜を坊の浜。坊の浦の、中心地を中坊。上、中、下、といった具合である。鳥越山龍巌寺と云うお寺の周りを、門前町と称している。

至る所に寺院が点在していて、歩いている僧侶達によく遇った。坊津は又、お坊さんの町と言っても、過言ではなかった。

鶴が両羽を、大きく広げている優美な湾をなしている為に、坊の浦は、<鶴の湊>とも呼ばれている。

 お酒が運ばれて来た。虎吉の娘、お紗江であった。障子を閉める姿は、なんとも可愛らしく梁には映った。

「梁さん。お酒を、お注ぎしましょうか?」お紗江は、優しく梁に問い掛け、徳利を手に持った。

「ありがとう。スコシもらいます」

 唐船の船長、梁清順は少し大きめの杯を手に持ち、お紗江の前に差し出した。

「梁さん、いつ坊津へ?」

 お紗江とは、顔馴染みである。

「昨日の夕方、このバンチン(棒津)に着きました」

唐の湊、としての坊津の名前はあまりにも有名で内外に知れ渡っていたが、中国人の間では、棒津、荷利(コウリ)暴利、抱里、坊泊という名前でも呼ばれていた。堺の港等からも出航する船はあったが、日本最後の寄港地、それは、坊津であった。「どこから来たのか?」と尋ねられたら、皆は最後の寄港地である「坊津」と答えるところから、結局日本への総路として注目されていた。そこは、どういう所であろうか? との興味から、色々な名前で呼ばれるようになっていた。

梁は、続けた。

「二度ほど、アラシニあいました。もう、ダメカトアキラメもしました」

 お紗江は頷きながら、船長、梁の武勇伝に聞き惚れていた。荒波を受けて潮焼けした梁の男らしさに、お紗江は、うっとりとするばかりであった。

「タイセツナ荷物も、スコシ流されました。ニクズレしたのでしょう。船がオオキク傾きはじめた頃、アラシハやんでくれました」

幸運であった事を、虎吉に告げた。

「む〜」と言って、<また会えて良かった>と、虎吉は、心からそう思った。

 梁は、テーブルに並べられている手作りの料理に箸を付けて、美味そうに食べた。虎吉の妻、お節が梁の為にと朝から作ってくれた、自慢の料理である。卵を原料にしたコガ焼き、魚のすり身を揚げた坊津揚げ、鰹の刺身や真鯛の塩焼き等が、梁には美味かった。友との再会に、話は盛り上がっていく。静かな港町の一角に、笑い声が途切れることなく響いていた。

 暫らくして、梁を尋ねて、見慣れぬ二人の青年が、寺田家を訪れた。村上屋から、と言っている。

「梁さん。村上屋から、お迎えが来ていますが、どうなさいますか?」

 お節は、泊まって頂く準備は、既に出来ていると、虎吉に頷き目で合図をした。

「そうだ。梁さん。今夜は、この家にお泊まり下さい。むさ苦しい所ですが?」

 虎吉は、それが当然だと言わんばかりに梁を見た。

「そうよ。梁さん、今夜は泊まって行って」お紗江は、必要以上に梁を誘った。

「最近、この辺には盗賊が出るのよ。恐くて皆、夜は外へは出ないのよ」

 お紗江は、この頃、盗賊の出現によって物騒になって来た事を、梁に報せた。

「そうなんですよ、梁さん。なんでも、臥蛇島近海を、荒らし回っている海賊の一味らしいのです」

 虎吉は、不機嫌な顔をして言った。

「だから、梁さん。今夜は、本当に泊まって行って」

 お紗江の顔には、何かを訴えるものがあった。やけに胸騒ぎを、覚えるお紗江である。

「ダイジョウブ。お紗江さん。イマ、迎えにきているのは、ケンノタツジン・・・・・シンパイいりません!」

梁船長の、ボディーガードであった。剣を持たせたら誰にも負けない、また、剣無くしても戦える凄腕であった。

 二人の若い男が、玄関で待っていた。

がっちりしていて、お紗江にも、この人達なら大丈夫、強そうだと思われる男達である。

 梁は、寺田家の皆にお礼を言い、家を出て村上屋に向かった。外は静かだ。石畳が、ごつっと足に当たり、よろけそうにもなる。でこぼこした石畳だった。

 暫らく歩くと、商家の通りから海岸通りに出た。何やら、人の気配を感じる。梁は、道路の真ん中を歩き、ボディーガードの二人は、梁を挟んで道路の端を歩いた。中国剣法、誘いの業である。お紗江の、不吉な予感は的中していた。盗賊の一味である。盗賊の一味が、いきなり梁に襲いかかった。

「やあっ!」と、太刀を大きく振りかぶって、梁めがけて打ち込んで来た。

しかし、梁に届く暇も与えずに、暗闇に何人かが、ばたばたっと倒れるのが梁には分かった。鍛練されている二人の前には、盗賊など相手にならなかった。二人は、盗賊相手に遊んでいるようにも、暗やみの、梁の目には見える。

「うっ!」 悲鳴に似た、声が聞こえた。

 何分たったであろか、静かな沈黙が続いていた。静かになっていた。

「陳! 角! 大丈夫か?」「はい 大丈夫です!」

「船長も、大丈夫ですか?」「大丈夫だ!」

<こいつらか? お紗江さんが言っていた、悪党というのは?> 梁は、心の中で呟いた。

道端には太刀を持った八人の盗賊が、倒れているのが見えた。首の骨を、折られている。

「明日にでも、役人に届けましょう」角は、そう言って盗賊の足を蹴飛ばした。

「剣を使うまでの事は、なかったですよ」角は、そう言って大きく息を吸った。陳は、笑っている。

 村上屋に着いた梁は、先程、盗賊に襲われて、全員殺して来た事を、女将に告げた。

「あら。そうだったの。偉い目に、遭ったわね、梁さん」

女将は、梁に怪我もなく、盗賊達を全部やっつけて来たと言う話を聞いて、嬉しかった。

「梁さん。皆、喜ぶわよ」

夜になれば盗賊が現れて、金品を強奪され命までも奪われる者が多かった。武術に自信のある若者達で自警団を作り、役人達も、夜の警備を強化してはいたが、警備の裏をかかれて一考に埒があかないでいた。

「これで、安心して夜も出られるわ」

女将も、特別な用事が無い限り、夜歩きは控えていた。ほっと、胸を撫でおろす女将である。早く捕まれば良いと思っていた女将は、盗賊の心配もなく安心して暮らせることに、心の中まですっきりした気分であった。

「さっ、梁さん。飲み直しと行きましょう」 女将は、まるで少女に戻ったように、浮き浮きしていた。

「そうデスネ。ノミマスカ」

「陳、角、君達も、ここに来て一緒に飲もう」

ひとりだったら、簡単にやられていただろう。梁は、二人に救われて感謝していた。

「女将さん。マダアンシンデキマセン。臥蛇島キンカイヲ、アラシマワッテイル海賊のナカマらしいです」

虎吉の家で、聞いた話をした。

「海賊、親座衛門の仲間なんでしょう?」女将は、梁にお酌をしながら言った。陳、角へとお酌をしていく。

女将も、海賊の仲間だということは、噂を聞いて知っていた。酒を注ぐ音が、静けさの中に吸い込まれて行く。皆、寝静まっている。あまり大きな音は発てられないと、女将は思った。

「他にも伍衛門一派の海賊がいてね、近頃、海賊同士の争いがあったらしいのよ。それで、親座衛門一派が破れて、よそに散らばったと云う訳らしいのよね」女将は、三人の顔色を伺いながら、熱っぽい声で喋った。

「ソレデ、シンザエモンは、どうなったのですか?」

梁は、女将の手料理に箸をつけながら聞いた。甘酸っぱい味が、口の中に広がる。女将の手料理もまた、実に美味いと女将の手料理を食する度に思った。

「それなのよね問題は。伍衛門一派に殺されて、海に投げ込まれたと云う噂なんだけどね。詳しい話は、誰も知らないのよ」

三人には、ここ坊津で盗賊が出没している訳が、ようやく解ってきた。

「ソウデスカ」と、納得した様子で三人を代表するかのように、応える角であった。

 潮騒が、聞こえる。村上屋の夜は、静かに過ぎて行く。女将の耳元には、お客達の寝息が聞こえてきそうな、静か過ぎる夜であった。

 村上屋に、朝が来るのは早かった。

昨夜の出来事は、もう役人の耳に入っているらしく、二人の役人が村上屋を訪れたのは、夜もまだ開け切れない早朝であった。

女将は、役人達を応接室に通した。顔見知りの役人で、事件がある度に、村上屋にも聞き込みに訪れていた。

「さあ、どうぞ、お掛け下さい」「源さん、さっ、どうぞ」

女将は、丸いテーブルの内側に仕舞ってある椅子を、両手で引いて、二人が掛け易いように取り出して薦めた。

「女将、朝早くから、申し訳ないのう」

源さん、と呼ばれている、腕利きの役人である。申し訳なさそうな顔で、頭を掻いて女将に会釈した。

「良いのよ、そんなこと。今あの方達を、女中に起こしに行かせますので、お茶などお飲みになって、少し待って下さいましね」

女将は、二人が椅子に腰掛けたのを見計らって言った。

 お茶を持って部屋に入って来たのは、お美代であった。二人の役人に、頭を下げ挨拶を交わした。テーブルの上の、それぞれの前に、お茶をそっと置いて行く。

「お美代ちゃん。梁船長と角さんそれに陳さんを、お越しに行ってもらえる?」女将は、お美代の眠そうな顔を見て言った。

お美代には、何の事なのか、昨夜の事件の事は良く解っていた。

梁が、応接室に入って来たのは、二人の役人達が、お茶を飲み終わった頃だった。

女将は、梁に昨夜の件でお役人が、尋ねて来ている事を告げた。梁には、お美代に起こされた時から、察しはついていた。

「梁さん。こちらが、山内彦佐衛門様配下の、お役人。宮田源之進様」「こちらが・・・」と女将は、梁に役人達を、紹介し始めた。

梁は、立ち上がった宮田源之進に向かって、一礼をして、礼を尽くす。源之進も、梁の目を見ながら会釈をする。梁は、以前にも源之進に遇っていて、二人は顔見知りであった。源之進の隣に立っている、源之進よりも、やや背の高いもうひとりの役人の方に、梁は目をやった。

「同じく、こちらは、鮫島福次郎様よ」

梁は、同じように、福次郎に向かって一礼をした。

「梁殿、よろしく」福次郎は、あっさりした口調で会釈すると、椅子に掛けている源之進の隣に腰掛けた。

源之進と福次郎は、共に脇差はそのまま、太刀は、それぞれ右手側のテーブルに立て掛けている。右手に刀を持つ、というのは武士の間では、刀を抜かないという礼儀でもある。武士が道を歩く時は、左側を歩く。なぜなら、右手に敵を置き、左腰に差している太刀を一気に抜いて、敵に斬り掛かれる。左手側に敵がいれば、太刀を抜いて敵に向けるには、一瞬の遅れがあり相手に斬られることを意味する。

梁は、源之進の向かい側の椅子に腰掛けた。浴衣姿である。違和感無く、良く似合っていた。

「梁殿、昨夜は盗賊一味に、襲われたそうだが、怪我は、無かったですかな?」と、源之進が、口火を切った。源之進は、続けた。

「我々も、前から躍起になって盗賊一味を、捕らえようとはしていたのですが、昼間はどこぞに潜んでいたらしく、姿を現わさない。どうしたものかと、思案していたのです」

源之進は、梁達が盗賊一味を捕らえてくれた事を、感謝の意味を込めて話した。<ありがとう>と 言わんばかりの口調である。

 梁は、源之進の言葉の意味を察していた。「わたしも、ホカノミナモ、ケガハありませんでした」

「そうでしたか。それは良かった」

福次郎は、安心した様子で、梁を見た。浴衣が似合っている。唐の服ではないかと錯覚するくらいに、福次郎には思えた。

 梁は、自分の姿を、ジロジロ見ている福次郎に向かって話した。

「わたしは、ただヨコデミテイタダケ。陳と角が、わたしを、マモッテクレマシタ」

自分の手柄ではなく、陳と角を、誉めてやって欲しいと、梁は思っていた。

話の途中であったが、部屋を出て行った女将は、陳と角を連れて部屋に戻って来た。

「コチラガ、イマハナシタ」梁は、陳と角を紹介する。

「陳訂漢」右手の指を広げ、陳の方を指した。

「コチラガ、角武純です」

 二人を見た源之進は、<これは出来る>と思った。ただならぬ殺気を肌で感じ取っていた。絹製のチャイナ服が、光っている。

「陳デス!」「角デス!」

二人は、源之進と福次郎に挨拶を交わして椅子に掛けた。

「今回、船長や、お二人には、大変なご迷惑をお掛け致しました。海賊の一味であると云うのは判っていたのですが、どこに潜んでいるのか、皆目見当がつかないでおりました」源之進は、お茶を運んで部屋に入って来たお美代に目をやり、また話を続けた。

「昼間は、どこかに隠れて夜だけ出没して動くといった具合で、いつも裏をかかれておりまして。八人もいたとは、驚きました。せいぜい三人ではないかと思っていたのですが」源之進は、自分達の無能さを恥じていた。

お美代は、黙って椅子に腰掛けている陳と角の前に、お茶を出し終わると、女将の後をついて、静かに部屋から出て行った。

 部屋から出る二人を目で追う一瞬の沈黙があったが、源之進は続けた。

「とにかく、怪我もなく良かった」源之進は、ほっとしていた。

 坊津は、関白近衛家の荘園である。山内彦佐衛門以下、宮田源之進、鮫島福次郎等が、坊津の治安を守る為に特別に派遣されていた。源之進と福次郎は、役人も兼ねる武士である。

 幕府からは、唐人を手厚く保護せよとの達書も来ていて、梁船長や角、陳が怪我でもしていれば、一大事、大事件になっていたところであった。彼らの首は、飛んでいた。幸運にも、梁船長達は、盗賊までも退治してくれた。山内彦佐衛門以下、配下の者達が感謝しない筈はなかったのでる。

「山内彦佐衛門様も、後日お伺いするとの事でした。くれぐれも宜しくとの事です」

源之進と福次郎は、笑みを浮かべた。一見落着と、いった感じである。 

 梁も陳も角も笑っている。訳が解らないまま、笑った。部屋には、笑いが響いていた。

「女将、何です? あの笑い声は?」佐市であった。いつものように、釣りたての魚を卸に来たのである。

「佐いっちゃん、聞いたでしょ?」

 佐市も昨夜の事件の事は、聞いて知ってはいたが、女将の問いに何の事だろうと思った。

 女将は、佐市の話も聞かず続けた。

「梁さん達がね、昨夜盗賊に襲われたのよ」 <ああ、そのことか>と 佐市は思った。

 女将は、続けていた。

「それが、凄いじゃないの。盗賊八人も相手にして、皆やっつけたと言うじゃない。佐いっちゃん、すっきりするじゃないの」

「よくぞ、やっつけてくれたと言いたいわ」女将は、機嫌が良かった。

「それじゃあ、唐人さん達と云うのは、梁さん達の事ですか? 女将さん」

 佐市と梁は、面識があった。よく知っている友人でもある。 

「そうよ。梁さん達の事よ」

「そうだったのか、あの唐船は、梁さん達の船だったのか」と、呟いた。唐船の横を通り、漁を終えて帰って来たところである。

「梁さんが・・・」

 数ヵ月前に梁が坊津に来ていた時に、梁の妻、鄭貴達を船で、博多浦にあるチャイナタウンまで送り迎えしてあげた事を、佐市は思い出していた。

「梁さん達ね、その事で今、源さん達と話をしているところなのよ」

 女将は、朝早くに源さん達が、村上屋に泊まっている梁さんに会いに来た事を、詳しく佐市に話した。

「そうだったのですか・・・・・」佐市は、頷いた。

「それじゃ、女将さん。これで失礼します」 いつものように魚を、裏の台に置いて村上屋を出ようとした。

「佐いっちゃん。梁さんに会って行かないの? 話はもう直ぐ終わる筈よ」

 出て行こうとする佐市を、引き止めた。

「梁さんも、佐いっちゃんに会いたがっていたわよ。荷役作業が終わったら、会いに行こうかと言っていたわよ」

 しかし、佐市には、破れない住職との約束があった。興禅寺で、学ということである。気遣いは有り難いと、佐市は思った。仕事の後に、興禅寺で修業僧達と一緒に学ぶ事になったことの一部始終を、女将に話した。

「そうだったの・・・」女将は、納得した様子で、佐市に呟くような声で言った。

「佐いっちゃん、おやんなさい。しっかり、おやんなさい。修業僧の方達に、負けないように・・・」 「命を賭けて!」

「少し、オーバーだったかしら」と、女将は笑った。佐市も、可笑しくなって笑った。

 村上屋とは、笑いの絶えない唐人宿のように思われた。

 

 

 

 佐市は菖蒲坂を登り、興禅寺の門を潜った。目の前に広がるお寺の庭は、相変わらず綺麗だと思った。庭の片隅には、苦瓜の花が咲いている。琉球より持ち帰ったと聞いていた佐市は、<どんな味がするのだろう? いつか食べてみたい> と思っていた。

<朝顔の花よりも小さくて、糸瓜の花に似ている>

 興禅寺では、近くに畑を持っていて、いろんな作物を、修業僧達が植えている。ある程度、自給自足の体制が出来ている。しかし、信者の数も多く、野菜類の多くは、信徒達が毎日、持って来てくれていた。

「こんにちは!」

「後免! 誰か居られますか?」

佐市は、大きな声で挨拶をしてみたが、誰も出てこない。<取込中か、仕方ない> さっさとあがると、昨日通された部屋の方へ歩き出した。部屋の前に来た。静か過ぎる部屋に、誰も居ないのかと思った佐市は、部屋を覗くようにして中へ入って行った。

その静まり返った部屋では、修業僧達が黙々と本を読んでいる。物音でも発てれば悪いような、そんな雰囲気である。

覚念も、黙って何やら本を読んでいる。

佐市は昨日と同様に、空いている覚念の隣に腰掛けた。どれ程の、時間の経過があったであろうか? 木の板を、小槌で打くような音が、寺に響き渡った。修業僧達に、時間の区切りを報せる、代々伝わるチャイムの音であった。

 僧侶が、部屋の中へ入って来た。僧侶の、円昌である。佐市とは、面識もあり時々話をしている、話し相手でもあった。円昌は、遠く奈良で産まれ、唐への留学に憧れ渡ったひとりであった。数年の修業を終え、再び興禅寺に立ち寄った。帰郷の途中であったが、何故かこの興禅寺に居ついてしまっていた。唐へ留学する者達の、良き相談相手であり、また修業僧等の、教師の役をもしていた、優秀な僧侶である。

「今、学んだところで、解らなかったところはないか?」

 誰も質問する者は、いない。

「そうか。それでは、休息に入る」言い終わると、円昌は佐市の方を見た。

「佐市さん。そなたには、渡したい本があるので、暫らくここで待っていてもらえないか?」

佐市は、頷いた。どんな本なのだろうか? と興味深く、円昌の戻って来るのを、暫らく待った。

「佐市さん、とうとうその日が来ましたか」覚念は、意味ありげに佐市に話し掛けた。佐市は、どういう事だろうかと思ったが、気にもしなかった。

僧侶の円昌が、戻って来た。分厚い本等を両手に一杯抱えている。佐市の座っている所に、重そうにして本を持って来た。

「佐市さん、これが今日から、そなたが学ぶ本ですよ」

抱えている本を、佐市に手渡して言った。佐市は、手に本を全部受け取れずにいる。円昌は、残りの本を、佐市の机の前に置いてあげた。

「有難う御座います」佐市は、円昌にお礼の言葉を言った。

円昌は、佐市に渡した本を、説明し始めた。「佐市さん。そなたが主に学ぶのは、航海学、天文学、積載学、倫理学、商業学、簿記学、仏教学、算術学、算盤じゃ」

佐市は、読み書きは得意であったが、何の事やら、さっぱり解らなかった。算盤は、見た事があったが、聞き慣れない言葉に、これから先が思いやられると不安になっていた。

「航海学、天文学、積載学は、そなたが毎日やっている船の事だから、心配要らぬ」

円昌は、説明を続けた。

「倫理学は、唐の学者や著名な方が残された言葉等で、これもまた、心配要らぬ」

円昌は、不安な顔をしている佐市を見ながら説明を続けた。

「商業学、簿記学、算術学、算盤は商売の事じゃから、これまた、佐市さんが毎日なさっている事で、別に心配は要らぬ」

「仏教学、これも仏様の事で、佐市さんには、特に、心配は要らぬ」

 <心配は、要らぬ> と繰り返し言われる度に、佐市は益々不安であった。

「それから、この本は外へ持ち出してはいけない」と、円昌は、力を込めて注意した。

「ここでは、筆を一切使ってはならない」 <筆を使ってはいけないとは、どう言う訳なのだろうか?> 黙って、円昌の話を聞いていた。

「全てを頭の中に、その日の内に、書き込むように」

 興禅寺では、筆を使ったり筆を使ってメモをしたりする事は、許されなかった。

<これは厳しい!> そうすると、どうやって計算するんだ。算盤か。<記憶せよ>と言っているんだな。

 ようやく、円昌の言いたい事が佐市にも、解りかけていた。

円昌は、全てを頭にたたき込めと言いたかった。興禅寺において、集中して学べという事であった。

円昌は、説明を終えると、部屋からさっさと出て行った。

 佐市は、一冊の本をめくってみた。何の事やら、解らない。

「これを、覚えろと言うのか?」佐市は、呟いた。

「う〜」と、佐市は、愕然とした。

 学ぶといっても、興禅寺に於いては、理解出来ない所だけ質問するといった形式を取っている。独学するのと殆ど変わらない状態だった。

「佐市さん、あなたはまだ少ない方ですよ」覚念は、溜め息をついて、悲観している佐市に語りかけた。

「私など、二十冊ですよ」

覚念の机の上には、三冊しか置かれていなかった。覚念は、話を続けた。

「残り、三冊です」

あと三冊とはどういう事か、佐市は覚念に聞こうとしたが、覚念の説明の方が早かった。

「十七冊は、もう既に学び終えたのです」

「それでは、もう学ばなくても構わないのですか?」佐市は、覚念に聞いてみた。

「学んでも、構わないのですよ。自分が学びたいのであれば」

どういう事だか、まだ佐市には良く解らなかった。覚念は、解らないでいる佐市に、説得させるような強い口調で言った。

「学問に、終わりなどないのです」

まだ納得していない、首を傾げている佐市に向かって話を続けた。

「これは、単なる興禅寺で学んだ、という区切りにしかすぎないのです」

覚念は前よりも、もっと力強く真剣に話している。<学問とは、そんなに魅力のあるものなのか?>

「一生、学問は続けなければなりません」

覚念は、佐市が頷いた姿を見て、<やっと解ってもらえた> そう思って、ほっとした。

「人間の価値は、何なのか? 如何に生きるべきなのか?」

「あなたが学ぼうとしている、倫理学にその答えを見出すでしょう」

佐市は、覚念の凄さを、まざまざと見せ付けられたような気がした。 

「それで、この本を学び終えたと思ったら、どうすればいいのですか?」佐市は、聞いた。

「全てを理解したと思ったら、その本を持って僧侶、円昌様の所へ返しに行けば良いのです」

「成程」と、言っている佐市を、覚念は見ながら続けた。

「円昌様が、幾つかの質問をなさいます」

「全てを答えなければ、理解したとは言えません。もう一度、繰り返し学ばなければならないのです」

「うむ〜む」佐市は、溜め息にも似た言葉を発した。

『先が思いやられる』という顔を、覚念に見せる。

覚念は、そんな佐市を見て、可笑しくなり笑った。

佐市は先の事を考えると不安で、とても笑えなかった。

「それで、覚念さんは残り三冊ですか?」「そうです」覚念は、佐市に微笑んだ。

「佐市さんにも、出来ますよ」覚念は、自信を無くしている佐市を励ました。「やれば出来る」と繰り返し言った。

「もう、あなたは歩きだしているのです。これから先、まだ長いのに、今更引き返せないでしょう? 佐市さん」

覚念は、佐市を諭すように言った。

「そうですね。分かりました、覚念さん」「頑張ってみましょう」佐市は、そう言って目を瞑った。

 佐市の態度に、覚悟を決めたかのように見えた覚念であった。

木の板を、小槌で打く音が聞こえている。佐市は、机の前の本を、一冊開いてみた。何の事やら分からない。それでも読んだ。

「よし、やるぞ!」

佐市の呟いた声が、覚念にも、聞こえていた。 <佐市さんは、やる気になっているな> 覚念は、心の中で呟き、佐市を横目で見ながら本を開き、先程の続きを読んだ。

部屋の中は、また静けさを取り戻して、静まり返っていた。

 外は、夕焼けだった。佐市は、訳の分からぬまま読んだ本の事を思い出していた。何だか、興味深い本であったような、そんな気がしていた。

「星を知る事に因って、船の位置が分かり、生命判断として使われているのか・・・」

興禅寺の門を出た佐市は、お紗江の家を目指し、歩きながら呟いていた。

 <唐の国というのは、摩訶不思議な国だ> 佐市はそう思った。一体どんな国であろうか? いつか、自分も行ってみたいと思うようになっていた。

 お紗江の家が、だんだん近づいて来る。

 今日は、下坊にある船戸神社の六月燈である。石畳を歩く佐市の足取りは、軽やかだった。坊津には、お寺の数ほどの神社が点在している。坊の浜の金毘羅神社、八坂神社、恵比須神社、下坊の船戸神社、中坊の恵比須神社、泊浦の九玉神社等あげたら限りがない程である。

 六月燈になると、どこの神社の前にも、夜店が出て頗る賑わう。

ところが、船戸神社だけは、道路の直ぐ近くに神社があり、石段を二十数段も登れば直ぐに辿り着くといった具合で、夜店なども出ない。

逢引きを、邪魔されたくない佐市にとって都合のいい神社だった。 

 皆さんは、お願い事のある時にだけ神様に手を合わせ、仏様に手を合わせる。人間とは、全く都合のいいものだと、佐市は思っていた。自分もそうだと思うと、可笑しくなった。

 お紗江の家の門を潜り、中へと入った。よく手入れされた石畳の庭である。玄関の前に立つと、佐市は大きな声をあげた。

「お紗江ちゃんいますか?」「御免下さい!」部屋を覗き込むようにして、お紗江を呼んだ。

「佐いっちゃん。お嬢様がお待ちかねよ」女中の、お静さんである。

「さあ、あがって」お静は笑みを浮かべて、家にあがるように佐市に言った。

「お邪魔します」と言って、佐市は家にあがって行く。

両方の親にも、公認の仲である。お互いの家を往き来していた。男が、女の人を六月燈等の神社、つまり、神様の前に連れて行くという事は、将来を約束しているという事を意味していた。

御両親に挨拶をした佐市は、暫らく世間話をした後、お紗江と家を出た。二人は肩を並べて、船戸神社に出掛けた。歩く二人の姿は、若い夫婦のようにも見える。石段を登り終えると、直ぐだった。船戸神社の鳥居の前には、大きな長い四角い灯篭が、横方向に掛けられていて、その灯篭の両端辺りから神社の方向に、それぞれロープが張ってある。そのロープには、小さな四角の灯篭が、数多く掛けられてあった。

佐市は、その灯篭に書かれてある絵模様を見るのが好きだった。近所の子供達や、六月燈役付きの方達が作った物である。馬の跳ねた絵柄や、帆かけ船の絵柄が目立っている。

二人は、横に長い大きな灯篭の下を潜り、両サイドの小さな灯篭の灯りに守られて、道の真ん中を神殿に向かって歩いた。

お参りを済ませた二人は、何故か黙ったままだった。黙ったままで歩いても楽しく、気まずくはなかったが、佐市は小さな声で聞いた。

「お紗江ちゃん、何をお祈りしたの?」

「内緒よ。内緒」

「佐いっちゃんは?」

「俺も、内緒だよ」

「なあんだ」と、お紗江は笑っている。お紗江には、佐市が自分と同じお祈りをしたのであろうという気がしていた。

二人は、川沿いに添って歩いた。蛍の放つ光が幻想的で、見惚れない訳にはいかない。

「お紗江ちゃん。喉は乾かないかい?」

上流には、石作りの屋根のあるタンクがあり、湧き水をそこで一度貯めた後、川沿いに添って作られた石棺上水道へ流す作りになっている。石棺上水道には等間隔に、小さな穴があけられてある。佐市は、その穴に差込んである木の栓を開けた。水が、勢い良く流れ出て来る。

「わあっ! 冷たい!」

お紗江は、その水を手に掬い、一口飲んだ。履いていた下駄を脱いで、水の勢いの方に足を向けた。足を洗うお紗江は、「わあっ、冷たいわ。冷たいわよ」と、足を引く。今度は、片方の足である。

「佐いっちゃんも、飲んだら? とっても、冷たいわよ」

日本最古の、共同水道である。石棺上水道とは、繰り抜いた石を、繋ぎ合わせた石作りの土管が、川沿いに添って取り付けられ、等間隔に穴を開けて、家の近くで水を流すようにしてあった。家を出たら直ぐに、何時でも使用できるようになっている。

「本当に、冷たいね」

佐市も、手のひらに掬い、水を飲んだ。

近くの民家から、童歌が聞こえている。

 

   子供と子供が、喧嘩して

     親親達が、取り上げて

       人々からは、笑われて

   高高様にゃ叱られる

     唐人さんが、ちょいと来て

断わいが、済んもした

 

「指遊びをしているのね?」

 お紗江は歌声に、子供の頃を思い出していた。

「佐いっちゃん、興禅寺にお勉強に行っているの? 村上屋の女将さんが、話してくれたわ。今、佐いっちゃんは、一生懸命だって」

「そうなんだ。だけど、さっぱり解らないんだよな」

「その内に、解るようになるわよ・・・」

「頑張ってね」お紗江は、諦めかけていた佐市を励ました。きっと、出来ると思っていた。

「うん、頑張ってみるよ」

 外は、もうすっかり暗くなっていた。

夜空を仰いだ二人は寄り添って、一際輝くひとつの星を見上げた。「綺麗ね」

きらきらと輝く満点の星達は、夢を空一杯に散りばめているように二人には思えた。

梁船長達に因って、盗賊一味はいなくなっていて安心だったが、二人は家路を急いでいた。

 

 

       四

 

 二〜三日の間に、梁達が盗賊一味をやっつけたと云う話は、坊津の隅々まで知れ渡っていた。梁船長とボディーガードの陳と角は、英雄になっていた。

 村上屋を出た梁と陳、角は、小舟に乗る為に海岸通りを、波止場に向かって歩いていた。荷役作業があり、船に戻らなければならない。

「あれが、梁船長だよ」

「あそこの、梁船長の隣を歩いているのが、角さんその後が陳さん」

「あれが、そう?」

「まあ、お嫁に行きたいくらいの、いい男だこと」

「歳取った、お婆ちゃんじゃ、お断わりだろうよ!」

「あんた、言うわね。私はまだ若いのよ」

「それでも、嫌だとよ」

「まあ〜、失礼しちゃうわね」

挙げ句の果ては、見物人の間で喧嘩になるくらいの騒ぎであった。

梁船長達を乗せた通船は、彼らの船に横付けになった。縄梯子を伝い、乗船して行く梁船長達の姿が見えている。

荷役作業は、船から荷物を小船に積み換えて、波止場まで運ぶ事になっている。唐船や波止場には、荷物を積降ろしする為に人夫達が、大勢待っていた。

 梁船長は、積み降ろし作業の手順と注意等を航海士の周にした後、航海士達に荷役作業は任せて、ボディーガードの角と陳を伴に、再び村上屋に戻って行った。

山内彦佐衛門が盗賊事件の件で、梁達に会いに来る日になっている。山内彦佐衛門と、その配下の松下右衛門、鹿島伝之助の三人は、村上屋の応接室に通されて、梁達が帰って来るのを、お茶を飲みながら待っていた。

「彦佐衛門様、遅いですね」

「右衛門、まあ、慌てるでない」

右衛門と伝之助は、落ち着かないでいた。右衛門と伝之助の太刀は、それぞれ右手側のテーブルに立て掛けてあったが、彦佐衛門は脇差だけである。武士の魂を、わざわざ家に置いて来たのだった。梁達に対する、精一杯の感謝の気持ちと、彦佐衛門なりの礼儀の積もりであった。

女将が、梁達を応接室に案内して来た。

「彦佐衛門様、随分とお待ちかねでしたでしょう? 梁さん達が、参りましたよ」

彦佐衛門は、椅子から立ち上がった。

それに釣られて、右衛門と伝之助も椅子から立ち上がった。

「梁殿、今回は御迷惑をお掛けして、本当に申し訳御座らぬ。盗賊まで、退治して下さったとは、誠に恐れ入ります」と言って、一礼すると、自分と配下の右衛門、次に伝之助を紹介した。

「コチラコソ、宜しく」と言って、梁と角、陳の三人は挨拶を交わして、彦佐衛門達の向かい側に腰を掛けた。

「梁殿、いつ坊津を発たれるのですかな?」

「荷役作業が済んだら、モウスコシ、この棒津に停泊シテイタイト、オモイマス」

「そうですか、ゆっくりなさって下さい」何か、困った事でもあったら、私や、ここにいる松下右衛門、鹿島伝之助に何なりと仰って下さい。出来るだけの事は、致します」

「ありがとう。ウレシク思います」「風ヲ待って、風ガ良くナッタラ、唐へムカイタイノデス」

「風を待つとな?」

彦佐衛門は、<はて、風を待つとは?> 何であろうかと思った。

「風ニ船ヲノセテ、走りタイノデス」

「左様で御座るか・・・風を待ってのお・・・」

 女将と女中のお美代達が、料理やお酒を運んで来た。テーブルの上には、女将達の手料理が並んだ。

「さ、皆さん、お召し上がり下さいまし」

 皆は、料理に箸を付けて食べた。

「女将、酒も美味いが、料理も美味いのう」伝之助が、女将のお酌を受けながら言った。

「そうだ」と、皆も頷いている。

「いや、女将も、さぞ美味であろうな」彦佐衛門が言った。皆、大笑いだった。

 唐人と席を同じくして、食べたり飲んだりする事は、許されなかった。ところが、この彦佐衛門は一考に気にもせず、部下にも進んで唐人達と席を同じくして、食べるようにと指導していた。 <いつの世も、民間人が果たす役割は大きい> 官職の役人が果たし得なかった事を、いとも簡単に解決してみせる姿を、何度となく見てきた。幕府より遠く離れているのを幸いに、彦佐衛門は積極的に、唐人達や民間人の中に溶け込んでいた。その事が、坊津に於いて、皆に慕われている要因でもあった。

「さあ、梁さん。飲んだ! 飲んだ!」

女将が三味線を持ち出して、歌いだした。

 

    はあ〜、坊津良かとこ

         来てみれば

       沖には、並んだ帆掛け船

        右も左も、よかにせどん

 

     はあ〜、坊津歌うは

         よかおご女

       都に、聞こえし百合の花

        生きる姿は、牡丹花

 

     はあ〜、坊津尋ねて

           八千里

       噂に、花咲く遣唐使

        命燃やすは、夢遥か

 

 女将の唄が止んだ。女将は、誰か三味線に合わせて歌うように言ったが、皆恥ずかしがって、聞いているだけである。

その時、彦佐衛門が鉢巻きを絞めて、踊りだした。三味線の音に合わせて踊るだけだったが、その踊りと云ったら、可笑しくて、皆笑っている。

「鮹踊りではないのか」誰かが言った。

「そうだタコだ!」

的を突いたその言葉に、皆はどっと笑った。 皆、食べた。飲んだ。我を忘れて歌った。

次の日、坊の浦は高見にある山内家の朝は、早かった。

「奥様、旦那様を起こしましょうか?」

女中のお貴代は、なかなか起きて来ない彦佐衛門を心配して、妻のお譜由に尋ねた。

「ほっときなさい。旦那様は、もう直ぐ起きて来ますよ」

 それから、一時過ぎていた。彦佐衛門は眠い目を擦りながら起きて来た。

もう、昼はとっくに過ぎている。

<これはいけない。今日は、遣唐使船に乗船させる人数の件で、興禅寺の住職、龍山殿にお会いする日じゃった>

 庭に出た彦佐衛門は、高見から坊の浦を見渡した。遣唐使船が、錨を打って停泊している。唐船や貿易船の姿も見える。

お侍さんが高い所から見ているので、その一帯は高見と云う地区の名前で呼ばれていた。高みの見物とは、よく言ったものである

「今日は、頭がズキズキするのお」

<二日酔いだと、言ってはおれない。早く、興禅寺に行かねば>

急いで支度を済ませると、お屋敷を出て、興禅寺に向かった。

興禅寺に着いた彦佐衛門は、いつものように門を潜ると中へ入って行った。

「龍山殿! 龍山殿! 居られるか?」彦左衛門は、大きな声で叫んだ。

「これは彦佐衛門様。御住職はおられますよ。ささ、どうぞお上がりになって、暫らくお待ち下さい。呼んで参りますので」

修業僧は、彦佐衛門をいつもの部屋に案内して、住職を呼びに行った。部屋に通された彦佐衛門は、二日酔いの頭を抱えて住職を待っていた。

先程の修業僧が、お茶を持って部屋に入って来た。

「御住職は、直ぐに御出でになりますので、お茶などお召し上がり下さい」

 お茶を彦佐衛門の前に置いて、部屋を出て行こうとした修業僧と擦れ違いに、住職が慌てた様子で部屋に入って来た。

「これは、これは、彦佐衛門様」住職は、彦佐衛門の向かい側に正座した。

「やあ、龍山和尚殿。今日は、遣唐使船に乗船する人数について、やって参りました」

「そうでしたか、それは、それは、彦佐衛門様直々に。かたじけのう御座います」住職は感謝して、深々と頭を下げた。

「その、乗船する人数で御座るが、数日前に遣唐大使がみえましてな、打ち合せ致しましたところ、一隻につき五名。四隻入港しておりますから、二十名と云う事になります」

「もう少し、乗せてあげたかったので御座るが、幕府からの乗船者が今回は多う御座って・・・」

遣唐使船の大きさは、長さ四十五メートル、横幅三十メートルである。最初の頃は、二隻であったが、七回の頃からは、船団も大きくなり四隻になっていた。人数は、小型船なら八十人位、中型船なら二百人位で、大型船なら二百五十人位が乗船できる勘定である。主な乗組員は、船長、航海士の他、遣唐大使一名、副大使二名、判官、録事、通訳、医師、主神、陰陽師、画師等の役人の他に、勿論、船を動かす裏方も乗り込んだ。

「今回も、航路は、南島路を取り、途中琉球王国に立ち寄るそうで御座る」

唐への航路は、朝鮮沿岸を経由する北路。北九州から、一気に東支那海を横断して中支に入る南路。坊津から直行で、東支那海を横断して中支に入る直行路。天草、薩摩沿岸を南下し、南西諸島を飛び石として、そこから東支那海を横断して中支又は南支に達する南島路がある。

「苦難の道に、乗り出す若者達の名前を、第一船から第四船まで、御住職には、選んで書いておいて欲しい」

「分かりました。人選に関しては、良く検討致して、決めさせて頂きます」

「御住職。遣唐使船に乗れたとしても、何人の者が、果たしてこの興禅寺に帰って来られるでありましょうかのお〜」

「恐らくは、その半分にも満たない事でしょう」

「半分もの若者達が、海の藻屑と消える訳ですか?」

「そうでしょう。帰って来ずに、そのまま唐に残る者や唐で果てる者もおりましょう」

「厳しいですなあ」彦佐衛門は、大きく息を吸って考え込んだ様子だったが、話を続けた。

「出帆の日は、後日連絡致しますので、よしなにお取り計らい下さい」と言って、彦佐衛門は庭の方に目をやった。見ると見慣れた男が、庭を横切ろうとしている。<むっ! あれは、佐市ではないか?>

「佐市! 佐市ではないか。こんな所で何を致しておるのじゃ?」

彦左衛門の驚いた声に、「はい!」と返事をして微笑んでみせる。

「こっちに来ないか? 佐市」彦佐衛門は手を招き、佐市を部屋の縁側に呼んだ。

住職は、不思議がる彦左衛門に、事の始まりを詳しく話して聞かせる。

「そうで御座ったか」と、佐市を見る彦佐衛門である。

「それで、佐市。そなたは今、何を学んでおるのじゃ?」

「はい。天文学とか、算術学とかで御座います」自分の興味のある学問から進めていた。

「なに、天文学とな?」彦佐衛門には、聞き慣れない言葉に思えた。

「して、その天文学とは、一体何んじゃ? 佐市」

「はい、星の方位や高さを知る事に因って船の位置が分かり、また、人の生命を判断する事も出来る学問に御座います」

「船の位置が、分かるとな?」

「はい、分かるようです」

「ふむ〜 拙者の人生も、判断できるのか?」

「はい、占えると、そのように書いて御座います」

「むう〜」そのような学問があるとは、彦佐衛門も知らなかった。

「それでは、佐市。いつか拙者の生命も見てはくれぬか? それが簡単に分かれば、便利じゃからのおっ」

「はい。分かりました」豪快に笑っている彦佐衛門を見て、佐市は笑顔で応えていた。

 やっと、佐市がやる気になったようじゃの、住職龍山和尚は、「うん、うん」と、頷いた。

<世の中、広いものじゃ> 自分の知らない所で、何かが動いているような気さえしていた。

<今夜は星空でも、眺めてみようか>と 思う彦佐衛門であった。

 

 

       五

 

 興禅寺には、それから三日が過ぎていた。住職の龍山和尚と僧侶の円昌は、部屋の中で考え込んでいた。

誰を、遣唐使船に乗せるか?どの船に、乗せるか?

選ばれた者達は、幸運であると思うのだが、それに因って、彼らの運命が大きく変わって来る。二度と再びこの興禅寺に戻れぬ者もあろう。選ばれることが、果たして幸運なのか、選ばれないのが幸運であるのか。それは、再びこの興禅寺の土を踏んだ時に決まるであろうと、二人は溜め息をついていた。複雑な心境であった。

遣唐使船に乗せる人選から始めようと、名簿を広げて、今回は、健康であると云う事を第一条件として選んで行った。

次に、誰をどの船に乗せるか? それは選ばれた者達に決めさせようではないかと、住職が提案した。それで良いと云う事になった。自分の運命を、自分自身に因って決めさせようと云う訳であった。第一船に、乗船するか? 第二船に、乗船するか? 運命の別れ目である。どの船が難破し、どの船が無事に辿り着くかは、住職龍山和尚でさえも分からなかった。

「よし。これで決まったな」住職は、何かを覚悟したかのように言った。

遣唐使船に、乗船できる者達を直ぐに発表して欲しいと言って、深い溜め息をつく。

後まだ半数が、興禅寺で次の船を待たなければならない。「今回選ばれたにせよ、そうでないにせよ、あの者達は、遅かれ早かれ・・・」名簿を持って修業僧達がいる部屋に、円昌は入って行った。

部屋は、相変わらず静かである。

「さて、今回の遣唐使船への乗船者が決まったので、今から名前を読み上げる」

円昌は、二十人の名前を、どんどん呼んでいった。名前を読み終えると、付け加えて言った。

「名前を呼ばれた以上の者は、各々が、どの船に乗船するかを決めるように。第一船から第四船まで、四隻でそれぞれ五名ずつとする。もし、それぞれの船に、多くの者が希望するようであれば、各自が話し合いに因って決めるように。いつ出帆するかは後日、彦佐衛門様が報せるとの事であるから、準備して待つように。出帆の予定日は、恐らく数日はかかるであろう。何か、質問はないか?」

「乗船したら、どのように致せば宜しいのでしょうか?」名前を呼ばれた者のひとりが聞いた。

「乗船したら、遣唐大使か船長の指示に従うように。言われた通りに動けば問題はない」

「他に質問は?」

「なかったら、直ぐに取り掛かるように」

円昌は、部屋を後にした。気が重かった。今頃、名前を呼ばれた者達は、不安であろう。かつて、自分が坊津より遣唐使船に乗船して、唐へ向かった時の事を思い出していた。

部屋の中は、騒々としている。

「佐市さん。無事に帰って来られるでしょうかね? 今は、嵐の時期ではないのですか?」

「大丈夫ですよ。覚念さん。友人の梁船長は、何度となく、その荒れ狂う海を渡り歩いているのですよ。遣唐使船の船長だって、同じじゃないでしょうかね。気にし過ぎではないですか?」

「そうでしょうが、唐へ辿り着くのは百人にひとりと聞きますよ」

「そうですね。覚念さんの言う通りかも知れませんが、幕府が選んだ優秀な船長でしょうから、まず大丈夫だと思いますが・・・」

覚念は、嵐に遭い船が漂っている所を、想像していた。「幸運を祈るしか、ないのでしょうか?」

覚念は、暗い表情になっていた。同じ釜の飯を食い、席を同じに学び、折角知り合えて親友になれたのに、嵐に大切な友を奪われるのかと思うと悲しくなっていた。

そんな覚念の気持ちは、佐市にも充分に解っていた。彼の気持ちを軟らげようと、努めて明るく振る舞おうとしたが、急にそんな事を出来る器用な佐市ではなかった。

「覚念さん、線香花火でも買って来て、花火大会でもやりませんか?」

覚念を慰める、唯一の方法だと佐市は思っていた。

「それは良い! よし、やりましょう」

 早速、花火を買いに、近くの雑貨屋さんまで出掛ける事になった。

ひとりで興禅寺を出た佐市は、女将に声を掛けることもせずに村上屋を過ぎて、海岸通りを真直ぐに歩いて行った。両替屋さんの看板が、見えている。その手前の路地を右手に折れて直ぐの所にある雑貨屋さんに、佐市は入って行った。

「やあ、佐いっちゃん、いらっしゃい。何にしますか?」

「こんにちは、小父さん。線香花火欲しいんだけど、ありますか?」

「丁度良かった。唐から入って来たばかりの線香花火、良いのがあるよ。佐いっちゃん。ささあっ、どれでも、どうぞ」

「これにしょうかな?」

「打ち上げ花火は、要らないのかい?」

「あまり、お目出度い事でもないもんでね」

「そうかい。ふう〜ん」何か意味ありげだと、雑貨屋の主人は思ったが、その事は聞けずに続けた。聞いちゃ悪いと思った。

「佐いっちゃん。なんだってね、興禅寺で修業僧達と一緒に学んでいるんだってね。偉いね、佐いっちゃん」

佐市は、気恥ずかしくて頭を掻いた。

その、学んでいる大切な友の修行僧達が、帰らぬ人となるかも知れないと思うと、切なくなって来る。

「小父さん、どうも有難う。それじゃまた」まだ話し掛けようとする雑貨屋の御主人を振りきり、佐市は、釣り銭を受け取ってさっさと店を出た。思うと悲しくなり、長々と話をする気にならなかった。

「頑張れよ。佐いっちゃん」

もう外はすっかり暗くなっている。励ましの言葉を背に、佐市は急いで興禅寺に引き返した。

 興禅寺では、佐市の帰りを、今か今かと待ち侘びている。

佐市が花火を手に、戻って来た。

「佐市さん、皆がお待ちかねだよ」

 覚念は手を差し出して、佐市を早志たてた。線香花火を佐市から受け取ると、それを皆に少しずつ配った。配り終えると、皆の前に立った。

「さあ、これから、線香花火でもやって、この興禅寺と、皆との思い出としょうではないですか?」

そう言って、覚念は一番乗りで、線香花火に火を着けた。庭先に咲いている朝顔の花が、うな垂れるように凋んでいる。その前には、線香花火がキラキラと燃えて行く。それは、人生の如くに華やかに燃え上がり、落ちて消えて行く。

「正に、我が人生ここに!」覚念は、悟ったように呟いた。

皆も、あちこちで、それぞれに線香花火の火を見ている。友や興禅寺での出来事などを、脳裏に焼き付けるかのようにも見える。遣唐使船に乗る者達にとって、人生の門出であるかも知れない、しかし人生の終わりになるかも知れない。複雑な胸の内は、佐市にも良く解った。

「今夜は、やけに、庭先が騒がしいのお〜」いつになく騒がしい。住職は庭先に視線を移すと、円昌に聞いた。

「線香花火を、やっているので御座います」「線香花火を?」

「暫しの別れにと、佐市さんが提案したそうで御座います」

「佐市がのお〜。むう〜・・・」<そうであったか、佐市が・・・。皆の者、今宵は何もかも忘れて楽しむが良い>

「覚念さん。綺麗ですね。火の中に吸い込まれて行きそうですよ」

 覚念の気持ちも、すっかり晴れやかになっていた。思い残す事はないかのように・・・・・。

「想いで作り。想いで作りですよ覚念さん」

「想いで作り?」

「そうです。我が人生に、悔いのないように明日を信じて、想いで作りです」「佐市さん。想いで作りですね」

「そうです」

 二人は、明日に生きる自信が、出てきたように感じた。線香花火の中に、我を見たからであったろうか? 解り合える友が、側にいると云う安心感からであったのだろうか? 二人は、笑っていた。

 翌日、遣唐大使は、副大使をひとり伴い、山内彦佐衛門の家を訪ねていた。

机の上には、それぞれの前にお茶が置かれている。何やら、話し込んでいる様子である。時々お茶を口元に運び、喉を潤していた。

「それで、本田殿。遣唐使船は、いつ出帆となり申したか?」

「船長の意見によりますと、明後日辺りが、宜しかろうと云う事で、私も明後日が良いかと」 

「明後日ですか・・・」

「そうです。興禅寺の御住職にも、そのようにお伝え下さい」

「分かり申した。伝えましょう」

「それから本田殿、何か必要な物は御座らぬか? 直ぐに、取り揃えますが」と言って、彦佐衛門は、遣唐大使の本田覚之進を見た。本田覚之進は腕組みをして、「必要なもの・・・はて・・・」と、暫らく考え込んだ。

「もう、食料などの積込みも全部終わり、必要な物は揃っております。ただ、都で聞いたのですが、<唐湊の芋>とは、一体どのような物なのか、一度食してみたいと存じます」と、思い出したかのように言った。

「何、唐芋をとな?」

「無いのですか?」

「そんな事など、容易いことで御座るよ」

「今、妻の譜由が、料理致しておりますのが、その噂の唐湊の芋で御座る。ま、今暫らくお待ち下され」

「して、その<唐湊の芋>のお噂は、都で聞かれたので御座るのか?」

「そうです。たいそう、美味いそうで?」

「実は、その芋は、呂宋(フィリッピン)と云う南の島から、持ち帰った物でしてな。坊津の、清原と今岳の農家にだけ、秘密裏に栽培させておってな」

「そうでしたか」本田覚之進は、納得した様子で頷いた。 <やはり、噂は本当であったのか>

唐や他国の品物を、植えることなど許されるものではない。幕府からの、厳しい達書が来ていた。にも関わらず彦佐衛門は、坊津の片隅に、持ち帰った芋を植えさせていた。唐船以外への持ち出しを、彦佐衛門の一存だけで勝手に禁止し、栽培方法などは極秘としていた。そのような訳で、口に出来る者は限られていた。

「本田殿、その芋は美味しいだけでは御座らぬ。雨にも強く風にも強い、実にこの風土と環境に適しておりますのじゃ」

 覚之進は、黙って聞いている。

「この唐湊の芋を、都の近くに植えさせたら、餓死する者など、きっと無くなりましょう。本田殿も御存じのように、そのような物は植えることさえ、禁止されておりまする。いつかその芋が、普及するのではないかと考えてのことで御座ってな」

「そうでしたか・・・・・」覚之進には、食べたくても、食べられない訳が、今やっと分かった。

「それにな、本田殿」

「はい、なんで御座いましょう」

「その芋を食べた後には、大きなおまけがつきましてな」

「なんですかな? そのおまけとは? 彦佐衛門殿、驚かさないで下さい」

「いや、いや。これは、ちょっと失言でしたかな?」と言って、彦佐衛門はいつものように豪快に笑った。

「譜由! 譜由は、居らぬか?」

「何です、旦那様。大きな声をお出しになって。ちゃんと、聞こえておりますよ」

妻のお譜由は、静かに部屋の中に入って来て、来客の二人に会釈をした。

「うっん。本田殿がな、唐芋を食されたいと仰るのでな、まだ出来ては、いないのか?」

「はい、もう出来ておりますが、貴代に運ばせましょう」

「そうしてくれ」

お譜由は笑顔を見せて、再度二人に会釈をすると、部屋から出て行った。

 お譜由は、貴代に唐芋を、旦那様達に運ぶように言っている。二人の笑い声が、台所の方から、微かに聞こえて来た。

<唐湊の芋とは、そんなに可笑しいものかのお〜> 覚之進は首を傾げた。

女中の貴代が、竹篭の中に山盛りに入れた唐芋を持って、部屋に入って来た。本田覚之進と連れのひとりに、丁寧に挨拶をする。机の真ん中に、その篭を置いて、また深々と頭を下げると、部屋から出て行った。

「さ、本田殿。これがその、噂の唐湊の芋で御座る。遠慮なく、食べて下され!」

「これが、その唐湊の芋で御座いますか?」 二人は覗き込んで、芋をひとつずつ手に取った。

「芋の皮を、手で剥かれたら宜しかろう」

 言われた通りにして、二人は恐る恐る食べてみた。芋の香りが鼻をつく。甘い味が、舌先を包むように広がって行く。

「うっ、美味い! 彦佐衛門殿、美味いですなあ。これが、その唐湊の芋で御座いまするか・・・」と言って、二人は、満足気に他の芋まで、遠慮なく平らげた。

 話は、幕府の話、都の話に変わっていた。何どき、過ぎただろうか?

突然、「プー」という音がした。

彦佐衛門の右手の方からも、同じような音が聞こえて来た。

「彦佐衛門殿。こ、これは、失礼致した。いやいや、申し訳御座いません」二人は、平謝りを続ける。

「いや、許せぬ。武士の前で、そのような。なんたる事!」と言って、大笑いを始めた。

「本田殿。先程話した、<おまけ>とは、そのことで御座ってな。実によく出る」

「私など、よく妻の譜由に怒られましてな。困ったもので御座るよ」

「そうでしたか。これは、これは、失礼なことをしたと、冷汗が出ました」と言って、二人も大笑いをした。

「近くの、漢方医に聞きましたところ、何でも、体に良いそうで御座ってな」

「彦佐衛門殿、この芋を、多くの人に食べさせたいもんですな。」

「その通りです。ですが、まだまだ時間がかかることで御座ろう」

「今日は有意義な時を過ごすことが出来ました。また、お会い出来るでしょう。その時は、うんざりするくらいに、飲み明かしたいものですな」

そう言って、遣唐大使本田覚之進と、その連れ副大使は遣唐使船に帰って行った。

 彦佐衛門は早速、興禅寺へと向かった。

いつもの部屋に通された彦佐衛門は、住職に遣唐使船の出帆の日取りが決まった事を話し出した。

「そうですか。明後日の出帆ですか」

「して、御住職。二十名の乗船者は、決まり申したかな?」

「はい。是れがその乗船者名簿で御座います。第一船から第四船まで、書いて御座いますので、お確かめ下さい」

「むう〜。確かに、二十名御座います」

「船酔いで悩まされ、嵐に遭いと、これから先、大変で御座いましょう」住職は溜め息をついて、何かを訴えるように彦佐衛門を見た。

多くの部下を持つ彦佐衛門にも、その意味は分かっていた。<きょうまで、一生懸命に育ててきた我が子を、失うようなものではないだろうか>

「それでは、早速この書類は、遣唐大使が持って来た書類と一緒に、幕府に送る事に致そう」

 彦佐衛門は、お茶を一口啜ると、また続けた。

「そうですな、幕府へ送るのは早い方が宜しかろう。幸い、泊浦に停泊している船が明日、堺に向けて出帆する予定ですので、その便にお願いすることに致しましょう」

「明日の、船便にですか?」住職は、早いことだと思った。

「さよう。坊の浜の廻船問屋、佐々木殿の持ち船でな、一緒に堺まで行かれるそうで、お願いしても、まず安心で御座る」

 <そうだ誰かに、泊浦までこの書類を、持って行ってもらおう>

「御住職、この書類を誰かに、泊浦の鹿島伝之助に持って行っては、もらえまいか?」彦佐衛門は、思い立って言った。

住職は、一瞬考えたが、佐市の顔が頭に浮かんだ。笑顔を浮かべて、彦佐衛門を見た。

「誰か、適任者がおりましたかな?御住職」

「佐市は、如何でしょう?」

「うん。それは結構で御座る。お願い致そう」

「誰かおらぬか? 誰か!」住職は、大きな声で叫んだ。住職の呼ぶ声に、修業僧が飛んで部屋に入って来た。

「佐市は、居るかな?」

「はい、佐市さんならいますが」

「ここへ、呼んで来てはもらえまいか?」

「はい、かしこ参りました」

彦佐衛門に、会釈をして修業僧は部屋から出て行った。

 暫らくして、佐市が部屋に入って来た。

「佐市、さっ、何をしているのじゃ」

 佐市は、戸惑っていた。<彦佐衛門様も居るし、何だろう>と、思案していた。

「佐市、そちにお願いがあってな。実は、その書類と、遣唐大使からお預かりした書類を持って、泊浦の鹿島様に、届けて欲しいのじゃが? 届けては、くれまいか?」住職は、申し訳なさそうに言った。

一大事ではあるまいかと心配していた佐市は、<何だそんな事か>と、ほっと肩を撫で下ろした。冷や汗の出る思いである。

「宜しいですよ。お易い御用で御座います」

「拙者が、今から伝之助に手紙を書くので、それも一緒に添えて欲しい」

分かりましたと言って、佐市は彦佐衛門が手紙を書き終わるのを、じっと待っていた。

「うむっ! これで、良し!」書き終わると、封をして書類に添えて、佐市に手渡した。

「佐市。宜しく頼むぞ」「はい、分かりました」

「明日、堺に出帆する佐々木殿に手渡すことになるので、佐市、くれぐれも宜しく頼みましたぞ」住職は、間違いのないようにと念を押した。

佐市は、直ぐに興禅寺を出て泊浦に向かった。

「さて、どの道を行こうか?」中坊から鳥越山龍巌寺を通り、峠を越えて大智院を右手に見て泊浦に行くか? 広大寺の前を通り、番所を抜けて泊浦に入るか? それとも船を使い、海岸伝いに行くか? 中坊の三叉路に着いた佐市は、迷った。大切な書類を持っている。間違いがあってはならない。

「よし、番所を抜けて海岸に沿って歩こう」呟き、覚悟を決めた佐市は、また歩き出した。

広大寺の前は、直ぐ海である。紺碧の海に、小魚の群れが飛び跳ねている。潮風は佐市を包み、暑さを忘れさせてくれた。リアス式の海岸に、小さな白波が打ち寄せている。遠くでは、鴎が舞っている。大きな曲がり角を、曲がり終えると番所が見えて来た。

<きょうも、検問をやっている>

 坊津は、複雑に入り込んだ海岸線が多く、どこからでも、検問を突破する事は容易であった。そのことを、役人達は充分に承知している。検問とは名ばかりで、チェックする程度であった。幕府からの命によって、仕方なく検問所を作り、番所を置いて出入する船を見張ってもいた。顔馴染みの吉原吉衛門が、検問所に立っているのが見える。近づいて行って、声を掛けた。

「吉衛門様、いつも大変で御座いますね」

「おう、佐市か。どうだ、お茶でも飲んでは行かぬか?」

「吉衛門様、役職は、どうなさいますのですか? 役職は・・・」

「役職? お主、悪い事をやっている奴らが、ここを大きな顔をして、通るとでも思っておるのか? お主、呆れた奴じゃのおっ」吉衛門は、肩を震わせて笑った。

<それじゃあ、ここは何の為にあるのか?>と佐市は、言いたげな顔をする。

「吉衛門様、実はこれから、泊浦の鹿島様に遣唐大使からの書類と、興禅寺より遣唐使船に乗船する方達の名簿などの書類を、届けに行く所なのです」

「遣唐大使からの書類と乗船者名簿をと?」「そうで御座います」

「それで、いつ出帆致すのじゃ?」

「明後日で、御座います」

「左様か。・・・何人の者が、またこの坊津の土を踏む事になるのかのお・・・・・」

遣唐使船に目をやり、沖の水平線に視線を投げた。そこは、唐への道である。大きな溜め息をつく心は、遠く唐にあった。

「どうして、遠い果て唐を目指すのかのおっ」

「それは、唐に学ぶ為でも御座います」

「唐に学ぶか?」吉衛門は、佐市の言葉を繰り返していた。「遣唐使も、命懸けじゃのお」

「そうですね。先ず、船酔いに、勝てるでしょうか?」

「船酔いか? ふむ〜、先ず自分との戦いに勝たなければならぬと云う訳か?」

「出帆して、先ず襲って来るのは、船酔いでしょう。皆さん、悩まされる事でしょうね」

吉衛門は、<そこまでして世の為に働きたいのか?>と思った。小さな船で近くの沖迄出た事があったが、その時、船酔いになって随分と苦しい思いをしたことを思い出していた。<あの時は、死ぬ思いであった>と、心の中で呟いた。『酔いを経験した者』でないと、あの苦しみは分からない。

「吉衛門様、遅くなりますので、これから泊浦に向かいます」立ち話をしていても、遅くなるだけである。

「そうか、気をつけてな。鹿島殿に、宜しくと、伝えておいてくれ」

「はい、分かりました、伝えましょう。それでは、失礼致します」吉衛門に頭を下げて、泊浦に歩き出した。一本道である。少し歩くと、泊浦が見えて来た。九玉神社を過ぎて、海岸通りを海に添って歩いた。

車岳が、どっしりと胡座をかいているようにも見える。沖には三隻の貿易船が、錨を打っている。あの船かな? それとも、向こうの船だろか? 砂浜が、遠くまで続いている。子供達の遊ぶ姿が、佐市には懐かしく思えた。<そんな事もあったよな> 昔を振り返り、先日の、お紗江との会話を、ぼんやりと思い出しながら歩いた。

 鹿島伝之助の家の前に来ていた。門を潜り庭を通って、玄関の前に来た佐市は、大きな声をあげた。

「伝之助様! 伝之助様!」

「御免下さい! 佐市で御座います!」

大きな声に、驚いた様子で、伝之助は何事かと玄関から顔を覗かせた。

「おお、佐市か。どうした、この騒ぎようは?」

「彦佐衛門様から、お預かりした遣唐大使からの書類と、乗船名簿などの書類を届けに参りました」

「何と。遣唐大使の書類等とな?」

「はい!」

「そうであったか。遠い所を疲れたであろうな。さ、とにかく、家にあがれ。佐市」

「宜しいのですか? 」

「何を遠慮など致す。さっ、これへ」「はい、それじゃ失礼します」

佐市は部屋に通され、出されたお茶を啜った。

「これがその、遣唐大使からの書類か? これが・・・」と言って伝之助は、書類を確認する。封書を開けて、手紙を左横にさらさらと開いて、彦佐衛門からの手紙を読んだ。手紙の文字を目で追う伝之助は、真剣な眼差しをしている。読み終わると、深い溜め息をついた。

「そうか、佐々木殿の船にのお。その方が、良いかも知れぬのお」彦佐衛門からの手紙を、折り目に添って元に畳みながら静かな声で言った。

「今夜にでも、届けると致すか」

「佐市、折角、家に来たのじゃ、食事でもしてはいかぬか? 千代の作った手料理は美味いぞ、食してみるか?」

伝之助は言い終わると、佐市の返事も聞かず、「千代! 食事の準備は、出来ているか? 佐市にも、運んで来てはもらえぬか?」と、台所の方を振り向いて言った。

「旦那様、そんなに急せないで下さいまし。料理は逃げやしませんよ」と言って、妻の千代が女中と手料理を運んで来た。料理が置かれている膳を、二人の前の、畳の上に並べた。

「佐市さん、暫らくだったわね。丁度、料理が出来たところだったのよ。何もないけど、さっ、遠慮なく召し上がれ」落ち着いた様子で微笑みかけながら、佐市を思いやる優しい声である。

千代は、いつになく優しかった。いつも母のような、感じさえする佐市である。

イカの塩焼きの香りと、糸瓜の味噌煮の香りがその場には、合っているようなそんな、温かみのある家庭であった。佐市は、糸瓜の味噌煮なども、大好物であった。伝之助は、イカに被りついている。豪快な食べ方である。

「美味い! 美味いなあ」糸瓜の蕩けるような甘さと、味噌の味が、ほろよい良く舌先を包む。思わず佐市は<美味い!>と叫んだ。

千代の手料理は、村上屋の女将の手料理にも劣らぬくらい、実に美味かった。二人は、すっかり平らげていた。食事の後の、お茶もまた、何とも言えないくらいに美味い。伝之助との、噂話も途切れて、一息ついていた。

頃合を見てか、妻の千代が部屋に入って来た。

「お千代様、どうもご馳走様でした。とても美味しく頂きました」佐市は深く頭を下げて、食事のお礼を言った。

「喜んでもらえれば、嬉しいわ」佐市に微笑みかける、お千代である。

「また、何時でも、いらっしゃいね」

「はい、伺わせて頂きます。有難う御座いました」

鹿島伝之助と佐市は家を出て、桟橋の方へと歩いた。夕暮であった。烏の鳴き声が、遠くから聞こえて来る。

<お千代様の手料理は、美味かったなあ! 料理とは、心で味わうものではないだろうか?>と、ふと考えていた。優しい接遇に佐市は、心から感謝していた。

伝之助と佐市は、三叉路の別れ道の所に差し掛った。

「それでは、佐市。気をつけて帰れよ」「はい、それじゃ、お気をつけて」佐市は、伝之助に深々と頭を下げた。振り向かずに、坊の浦へと向かう。

佐市と別れた伝之助は早速、遣唐大使の書類等を、佐々木才蔵に頼む為に、桟橋へと向かった。

暫らく歩くと、桟橋であった。「鹿島様。鹿島様では御座いませんか?」

桟橋の方向から、伝之助を呼ぶ声が、聞こえて来る。

泊浦の桟橋では、貿易船や唐船から出入りする小船の、検問を行なっている。番役の、速水林蔵であった。

「佐々木殿に、遣唐大使からの書類を、お願いしたくてな。今から、届けるところじゃ」

「それは、それは、御苦労様で御座います。さっ、こちらへ、どうぞ」と言って、林蔵は伝之助の伴をして、桟橋に向かった。

桟橋の小屋には通船の船長がひとり、お客を待っている。海を見詰め、退屈そうにしている姿が、伝之助の目にも入って来た。

「これは、これは、鹿島様。どちらの船に、行かれるのですか?」

「佐々木殿の船まで、頼む」

「かしこ参りました」船長は、ロープを手繰り寄せて、小舟を桟橋に近づけ、伝之助を乗せた。

「それでは、お気をつけて」陸で見送る林蔵は、言い終わると伝之助に深々と頭を下げた。

伝之助を乗せた小舟は、少しずつ桟橋を離れて行く。伝之助の姿が、少しずつ遠ざかる。林蔵は、じっと伝之助の姿を追った。小舟は、ゆっくり静かに、佐々木才蔵の貿易船へと近づいている。

泊浦の、水平線に落ちる夕日が、伝之助には眩しかった。とても大きくて、とても真っ赤な夕日である。櫓を漕ぐ音が、軋んでいる。波を蹴って、小舟は進んで行った。大きく回り、小舟は貿易船に横付けした。

「誰じゃ!」

 見張りの船員が、物音に気づき、突然大きな声をあげた。停泊中の貿易船や唐船には、航海中に舵を取るベテラン船員が、見張りをするしきたりになっている。恐らく舵取りの見張り役だと、伝之助は思った。

「佐々木殿は、居らぬか?」

「これは、鹿島様。暫らくお待ち下さい」

伝之助を知っているらしく、船の上から頭を下げて挨拶をした見張り役の船員は、縄梯子を小舟の前に投げた。

<梯子を登るにも、力のいるもんじゃな。それに、こんな時は、刀が邪魔になって登り難いのお〜>と、武士の魂など、こんな時は邪魔になっていけないと、心の中で呟く伝之助である。ゆっくり縄梯子を登り終えると、狭い廊下を通り、別の髭面の船員に客室まで案内された。

「これは、これは、鹿島様。よくお出で下さいました。今宵は、御ゆっくりと、お寛ぎ下さいまし。さ、さっ、どうぞ、お掛け下さいまし」

才蔵は椅子から立ち上がり、伝之助を部屋に迎え入れると、深々と頭を下げて言った。

二人は、静かに椅子に腰掛けた。

「ところで、佐々木殿は、明日ここを発たれて都に向かうと、お聞き致した。そこで、幕府にこの書類を、届けてもらいたいのじゃが」

「書類を、で御座いますか?」丸く高いテーブルの向側に、腰掛けている伝之助に向かって聞いた。髭面の船員が、グラスに酒を注ぐと、二人の前に置く。才蔵はゆっくりと、テーブルの上に置かれた酒の入っているグラスに、手をやった。グラスを口に近づけて、一口美味そうに酒を飲んだ。

「遣唐大使から、お預かり致した書類等じゃが」伝之助も、グラスに注がれていた酒を、ゆっくり味わうように、一口飲んだ。

「そうで御座いますか。よろしゅう御座いますよ。嵐にでも遭って、沈没でもすれば、お困りでしょうが」

その言葉に、伝之助の怪訝そうな顔を見せた。才蔵は、伝之助の不機嫌な顔に笑い出した。

「からかうでないぞ・・・。山内彦佐衛門様も、早い方が良かろうと仰ってな。佐々木殿に、お願い致そうかと言う事になった訳なんじゃよ」

「そうで御座いましたか・・・」才蔵は、大きく頷いた。

「都に着いたら、この書類を、近衛様にお渡しして、欲しいのじゃが・・・」

「かしこ参りました。唐物税も、お預かり致しておりますので、御一緒にお渡し致しましょう」

 坊津は、関白近衛家の荘園になっていて、集めておいた唐物税を、定期的に交代する役人や貿易商達が、都へ登る時に納めていた。坊津の豪商達から掻き集められたその唐物税などは、幕府の財政を支えている。つまり、この佐々木才蔵も、幕府の裏方であった訳であり、彼らの意見は、時として幕府をも震えあがらせていた。坊津の豪商達は、一目置かれる存在であった。

「それでは、話が決まったところで、少し飲もうでは御座いませんか? 珍しい物が御座いますよ、鹿島様」

 <珍しい物とは、何だろう?> 伝之助は、疑うような眼差しで才蔵の顔を見た。

「これで御座います。鹿島様。これは、唐船の船長から頂いた物で、なんでもポルトギースと云う国の船長から、貰ったそうなんですよ」

髭面の船員が手渡した瓶を、才蔵は伝之助の前に置いて見せた。

「ポリトギースとな? 別に、変わっているとは思えないがのお〜」瓶を覗き込む伝之助である。

「いやいや、それを一口お飲みになって下さいまし」と言った才蔵は、それをグラスに、注いだ。赤い色が、ガラスに透けて見える。

<これは、まるで、血の色ではないか>

「これは、まさか猿の血だとか、鹿の血辺りではあるまいな?」と言って、伝之助はグラスを口に運んで、香りを嗅いでいたが、それを一気に飲んだ。

「うっ、渋い! これは、渋いではないか」

「それは、なんでも葡萄という果物から、作る酒だそうで御座います」顔をしかめている伝之助に、それは、美味い物だと言わんばかりに、才蔵は言った。

「葡萄とな? 果物とは、驚きじゃのお」

「そうで御座いましょう?」

「しかしじゃ、佐々木殿、拙者にはどうもそう云うのは苦手じゃ。やはり、この、独特な酒が好いのお〜」

「酒で御座いますか?」才蔵は、飲み直しだと言って、コップに酒を注ぎ伝之助の前に置いた。

「いやいや、もうこれで結構」

 外は既に暗くなり、船の灯りが波間に揺れている。微酔気分になった伝之助は、「もう飲めぬ。役職がまだ残っているのじゃ」と、酒を勧める才蔵に、「書類の件を、くれぐれも頼むぞ」と念を押した。待たせておいた小舟を出させて、伝之助は家路を急いだ。

 

 

 

 遣唐使船が、遠く唐を目指して出帆する日を迎えていた。

遣唐使船に乗り込む者達は、落ち着かないでいる。住職龍山和尚と僧侶の円昌は、皆を集めて、最後の別れを惜しんでいた。

「もう一度、確認をしておく。遣唐使船に乗り込んだら、遣唐大使か副大使、或いは船長の指示に従うように。出帆したら、先ず船酔いが、そち達を襲って来るであろう。しかしながら、長くても五日位で船酔いは消えるであろうから、出された食事は、必ず食べるように。無理してでも食べる事・・・郷里に出す手紙などがあったら、提出しておくように。後で、送り届ける」

円昌は、力を込めて喋った。指導する者が弱気になってはいけないと、大きな声を張り上げた。

「なにか、質問はないか?・・・・・・」円昌は、皆を見回した。

「なかったら、食事を済ませて、坊の浦にある桟橋に向かうように。以上!」

興禅寺の庭先には、赤や青の朝顔の花が、竹で作られた棚に満開であった。それは船出を祝うかのようにも、円昌には思えた。

その頃佐市は、お紗江の家にあった。石畳の庭先には、椰子の木が植えられてあって南国を思わせている。その片隅には、お紗江が大切に育てているハイビスカスの花が、真っ赤に鮮やかに咲いていた。

「お紗江ちゃん、これから遣唐使船を見送りに行かないかい?」

「遣唐使船は、今日出帆だったわね。お見送りに行きましょうか?」「よし、行こう!」

佐市は、お紗江の御両親に挨拶をして、寺田家を後にした。長く続く石畳の道は、お紗江の下駄の音を吸い込むかのように、お紗江には感じられる。

両替屋の小父さんが、俯きかけたようにして、前からやって来る。

「こんにちは、小父さん。元気そうね」お紗江は、声をかけた。

「お紗江ちゃん。佐いっちゃんも、どうしたんだい?」

「あら、小父さん、今日は、遣唐使船が出帆する日でしょう?」

「そうかい、そうだったね。それで、お見送りと云う訳かい」

「そうよ」

 お紗江は、何時になく元気のない両替屋の小父さんに、どうしたのか聞いた。

「実は、両替の事なんだがね。小判一枚は、唐の紙幣何枚になるのか、その話し合いが近くの質屋さんで、ある事になっていてね。取り決めを行なおうという訳なんだよ」

「あら、そうだったの。両替屋さん同士で決めておくのね」

「相場があるからね。最近、だいぶ違って来ていると云う、苦情があってね」

「そうなの。両替屋さんも、大変ね」

「そうなんだよね。お紗江ちゃんは、良く解っているね」と言って、佐市の方を見た。佐市は、お面のように無表情である。

両替屋は、二人に<また、会いしましょうね>と挨拶をした。忙しい、忙しいを、連発して近くの角を曲がって行った。

坊の浦には、相変わらず唐船や貿易船それに漁船が、静かに浮かんでいる。見送ろうとする遣唐使船の姿が、四隻見える。

「あの船ね?」と、お紗江は指を差した。

海岸通りは人が多くて賑やかで、屋台のお店まで出ていた。まるで、お祭りである。遣唐使船を見送る、野次馬達である。

「あら、佐いっちゃんに、お紗江ちゃんじゃないの?」村上屋の側まで来た二人の前に、偶然にも女将が、ひっこりと外へ現れて声を掛けた。

「お紗江ちゃんの、浴衣姿よく似合うわね」女将は、お紗江の姿に、うっとりとしていたが、佐市の浴衣姿もまた、似合っていると思った。

女将は二人に言った。「お二人さん! お似合いよ」

「女将さん、からかわないで下さいよ」佐市は、とても嬉しかったが、気恥ずかしくもあり、頭を掻いて笑った。

「佐いっちゃん。梁さんは今、宿にいて、のんびりしているけど、寄っていかない? まだ、時間はあるんでしょ?」

「梁さんに、会って行こうか? まだ会っていないし。お紗江ちゃん、どうする?」

「それは、良いわね。会いに行きましょう」

二人は応接室に通されて、梁を待った。女中のお美代が、お茶を持って部屋に入って来た。

「佐いっちゃん、何を畏まっているのよ? お紗江ちゃんを幸せにしないと、承知しないからね!」お茶をテーブルに置くと、一瞬、佐市を睨んだ。

「お美代ちゃんには、叶わないな」

「そうよ、承知しないからね」お美代は、繰り返した。

お紗江とお美代は、子供の頃からの友達であった。お美代もまた、佐市の事を兄のように思い慕っていた。そんな二人のカップルは、お美代にとって、とても羨ましかった。<私も早く、佐いっちゃんのような人に巡り逢いたい>と、いつも心の中に思っていた。まだ逢えぬ愛する人の事を、そっと温め育てていたのであった。

「ゆっくりして、いってね」と言って、お美代は二人に微笑み、部屋から静かに出て行った。

唐船の船長梁は、直ぐに応接室の二人の前に現れた。笑顔を見せて、部屋に入って来た。

「ヨオ! 佐市、シバラクダッタネ。お紗江ちゃんも、ゲンキソウデ」佐市達の方へ、近寄りながら言った。

「暫らくでした。梁さんも、元気そうでなによりですね?」佐市は、椅子から立ち上がって、挨拶を交わした。お紗江も、佐市の横に立って梁と挨拶を交わす。

梁の焼けた肌が、やけに佐市には光って見える。逞しく、とても男らしく思えた。三人は、椅子に掛けた。

会話の途切れたのを補うかのように三人は、一口のお茶を飲んだ。美味かった。とても美味かった。再び逢えた喜びと、友である嬉しさが三人の胸を込み上げていた。

佐市の横に座っているお紗江の姿が、梁には娘のように、可愛らしく映る。<お紗江ちゃんも大人になったな・・・佐市なら、きっと幸せになれる・・・> そう思った。

梁は二人に、静かに話し掛けた。

「遣唐使船ガ、キョウ、出帆するラシイネ」

「はい、途中琉球王国に立ち寄るそうですよ」佐市は、梁の目を見て応えた。

「琉球王国に? イマカラ出れば、琉球にツクマエニ嵐にアウダロウ」

「嵐にですか? 琉球王国に着く前に?」

 <なぜ、判るんだろうか?> 佐市は、不思議そうな顔をした。

「大丈夫かしら?」お紗江は急に心配になり、梁に尋ねた。

「心配イラナイ。ソレホド海は、アレナイト思う。ただ、フナヨイニ、ナヤマサレル」

「そうですか・・・・・船酔いに・・・」佐市は、何だか訳の判らないのに解ったような気がした。

「晴れたアトニハ、カナラズ雨がフル。晴れ間がナガクツヅクコトハ、ホトンドない」

 言われて見れば、そうである。当たり前のようだけれど、なかなか気づかないことだと、佐市は感心した。

「今日は、晴れだからそうなるのですか?」

「ソウデス。キョウガもし雨だったら、琉球にツクコロニハ、晴れるデショウ」

「成程、そう云う事なんですか」佐市は、納得した。

「サテ、佐市とお紗江さんに、ワタシノ妻、鄭貴カラノオクリモノガアリマス」

 梁は、これですと言って、小さい箱から取り出してみせた。それは、金の鎖に繋がれたライトグリーンに光る、石であった。

「幸せをヨブトイワレテイル、翡翠です」

梁は、金の鎖に繋がれた翡翠のネックレスを佐市とお紗江の手に、それぞれ渡した。

「わあ! 綺麗な石」

「梁さん、ありがとう!」二人は、頭を下げて梁にお礼を言った。

梁の妻、鄭貴が、佐市とお紗江の仲を知ってのプレゼントと、友情の証に送った物だということは、二人には充分解っていた。

<有り難い事だ> 二人は、鄭貴に深く感謝した。お紗江の目には、うっすらと涙が浮かんでいる。

 ネックレスに見惚れている所に、女将が部屋に入って来た。女将は、ネックレスを見ている二人に言った。

「良かったわね。最高の贈り物よ」

女将は、先日その事は、梁から聞いて知っていた「優しい、奥様だこと」と 梁をからかっていた。佐市とお紗江を結びつける、友情のネックレスだと女将は思った。

「有り難い事です。女将さん」そう言って佐市も又、涙ぐんだ。

「馬鹿ね。佐いっちゃん、男はメソメソしないのよ。お紗江ちゃんに笑われるわよ」と言って、お紗江の顔を覗き込んだ。お紗江も同じように感激して涙を流している。「まあ、この二人は、泣き虫なのね」何とも、女将は意地らしくなっていた。

「お二人さん、折角貰ったんだから、つけてみれば?」二人は、女将に云われた通りに、ネックレスを首につけてみた。

「まあ、似合うじゃないの」と、女将。

「ありがとう、梁さん。本当にありがとう。鄭貴さんにも、有難うと、お礼を言っておいてね」

佐市とお紗江は、また梁に深く頭を下げてお礼を言った。

 そんな所へ、お美代が食事を運んで来た。テーブルの上に置いていく。

「わあ! お紗江ちゃん、綺麗な石ね」

「そうでしょう。梁さんの奥様、鄭貴さんに頂いたのよ」

「良かったわね」

お美代は、そう言って梁船長を見た。梁の目は、笑っていた。喜んでもらえて光栄だとも言った。

料理を置き終えたお美代は、また台所の方へと消えて行った。

「さ、召し上がって。梁さんは、勿論飲むでしょう? 佐いっちゃんは、どうする?」女将は、梁に酒を注ぎながら言った。

「はい、女将さん。私も少し頂きます」佐市は、飲みたかった。梁と酒を飲み交わすのは、久し振りである。

「そう、じゃ」と言って、佐市にも杯に零れるくらいに、酒を注いであげる。

 鯵の塩焼きに箸をつけたお紗江は、「美味しい!」と、口走る。

「そちらの、苦瓜の酢の物も美味しいわよ」女将は、苦瓜も薦めた。

「梁さんも、ご存知でしょう?」

「ハイ、琉球王国のワタシノトモダチガ、それがダイコウブツですよ」

「そうなの、美味しいわよね」と言って、また梁にお酌をする女将である。

 苦瓜の苦みが、お紗江口の中に広がって来る。その苦みが、お紗江は好きだった。何とも言えない、独特の苦みがあった。梁も、その苦みを味わっていた。

「オカミさん、イツモオイシイネ」梁も、出された手料理に満足だった。

 三人は、女将達の作ってくれた手料理を、全部平らげた。

 遣唐使船の出帆する時間が、だんだん迫っている。

佐市とお紗江は、村上屋の女将さんと梁にお礼を言って、坊の浦の桟橋に向かった。遣唐使船を見送る人達で、港はごった返している。子供の泣き声、大人達の笑い声など、二人は、お祭りのように賑やかだと思った。

 桟橋に横付けしている小舟に、佐市の顔見知りが、乗り込もうとしているのが見えている。それは、遣唐使船に乗り込む為に興禅寺で選ばれた親友達であった。

 小舟に、五人ずつ振り分けられて乗り込んで行く。総勢二十人であった。

<予定通りだな> 佐市は、心の中で呟いていた。

沖で停泊している遣唐使船に向けて、小舟が一隻また一隻と桟橋から出て行く。

そんな小舟に向かって、誰かが手をたたいて拍手をした。それは、見送りに来ている人達の輪の中に広がって行く。凄い歓声と、拍手が聞こえる。皆は、口々に言った。「頑張って来いよ!」 「元気でな!」「また、坊津へ戻って来いよ!」

見送る人達の、遣唐使達に掛けた期待と夢が、その言葉には込められていると、佐市とお紗江は感じていた。

 その頃、山内彦佐衛門は、高見の屋敷庭にいて、配下の宮田源之進と共に、遣唐使船を見送る為に坊の浦を眺めていた。高台の庭に立てば、坊の浦は一目瞭然、全て見渡せる。

「なんだ、あの歓声は?」

「なあに、いつもの事で御座いますよ」

「小舟が、沖へ向かうようじゃのお〜」

 小舟は、少しずつ遣唐使船に近づいて行く。しばらしくて、小舟はそれぞれ決められた遣唐使船に横付けした。遣唐使船に登っている人の姿が見えている。

 登り終えたのか、一隻また一隻と小舟が、遣唐使船から離れて、岸の方へ櫓を漕ぎ戻って来る。

「皆、乗り込んだようじゃのお。源さん」

「そうで御座いますね・・・・・」

 暫らくの、沈黙があった。

「なかなか、出ないのお・・・・・」

 彦佐衛門は、なかなか出帆しない遣唐使船を眺めて、溜め息をついた。

 待っていると、遣唐使船の方から大きな銅鑼の音が聞こえる。前のマストの頂上付近には、青い三角の旗が、後のマストの頂上付近には、真四角な赤い旗が揚がった。「出帆か?」

「そうで御座いますな。待ちに待った出帆のようで御座います」

第一船と思われる、船のメインマストの帆が揚がった。それにつられて、全船のメインマストの帆が揚がり、第一船と思われる船が、沖へ沖へ沖へと船首を向ける。第二船、第三船、第四船と、全ての帆が上がり、船首が沖へと向けられる。

 第一船を先頭に、徐々に隊列を組んで、遣唐使船は沖へと進んで行く。

遠い水平線には、日が落ちかけていた。正に、坊津最後の遣唐使船の、堂々たる勇姿であった。

 四隻の、遣唐使船を、夕焼けが包み込む。だんだん小さくなる姿に、人々は感動した。佐市も、お紗江も、村上屋の女将や女中のお美代、彦佐衛門や源之進、見送りに来ている人達全てが、目頭が熱くなっていた。それは、命を賭けて唐を目指す若者達へ送るエールでもあった。

 寺ケ崎の高台から、興禅寺の住職龍山和尚や僧侶の円昌、修業僧、今回、遣唐使船に乗船できなかった者達も、遣唐使船を静かに見送っている。だんだん小さくなる遣唐使船に向かって、住職は叫んだ。

「何かを掴んで、この興禅寺に、いつか必ず帰って来いよ!」「その時は、また温かく迎えようぞ!」

 あの落ちゆく夕日の彼方に、彼らの目指す唐の国がある。苦難の道に、自ら船出する若者達に、勇気という希望に満ちた未知の世界が待っている。苦しくもあり、楽しくもあろう。<涙は、決して見せるでないぞ!> 左手に数珠を持っている住職は、両手を胸元で垂直に合わせ、静かに目を瞑った。合掌し 彼らに幸せが必ず訪れるように祈った。

遠ざかる、遣唐使船に向かって、円昌は叫んだ。「運命に、負けるでないぞ!」

円昌もまた涙に霞んだ遣唐使船に、両手を合わせると目を閉じて、一礼した。皆は、遣唐使船をいつまでも、いつまでも見送っていた。

 

 

 

 遣唐使船が出帆して、三日が過ぎていた。

佐市は、学んでいる興禅寺の正門をいつものように出て、帰路の途中に村上屋の近くで女将に遇った。

「あら、佐いっちゃん。今お帰り?」女将は、いつもの襷掛けで、佐市に手を振って話し掛けて来た。色白の肌は、瑞々しく輝いている。<綺麗だ!>と佐市は、心の中で呟いた。女将の和服姿に、見惚れる佐市である。

「はい、今、帰る所です。女将さんは、いつも元気そうですね」と、軽く頷いて言った。

「そうよ、元気よ。頑張らなきゃね」

「そうですね」

<本当に、頑張らなきゃ>と 佐市も心からそう思った。

「そうだ、また、佐いっちゃんに、頼もうかしら?」頼むのは、悪いかしら? と言いたげな顔をする女将に、「なんです? 女将さん」と、女将さんの為なら、何でもお聞きしましょう、と言う顔をする佐市である。

「実は、博多浦の唐人町まで、使いに行ってもらいたいの」女将の顔を見詰めている佐市の、暗黙の了解の気持ちを察した女将は、静かな声で言った。

「唐人町まで?」

「そうなの、宿で使う食料と、梁さん達の船に積み込む為の食料を、調達して来て欲しいのよ」

<なんだ、そんな事か> また、何だろうかと考えていた佐市は、少し安心した顔を見せた。

 女将は、佐市に微笑んで続けた。

「黒豚二頭、買って来て欲しいのよ」

「黒豚を二頭ですか?」

佐市は、以前にも唐人町まで黒豚を買いに行った事があったので、驚く様子はなく女将に微笑みを返していた。唐人町に住む人達は、自分達の食料を確保する為と、唐船に食料として補給する為に、黒豚を中国から輸入して丹精込めて飼育している。その豚は、柔らかくて味も良く、唐船の船長達に、好んで食されていた。ただ、坊津に於いては、その黒豚を食べる者は少なく限られていた。僧侶達が、多く住んでいる坊津には、黒豚を食べることなど無縁に近かった。「もっての他」と龍山和尚に怒られそうな気配ではあったが、廻船問屋や豪商達、お侍の極一部、唐人宿に泊まるお客達だけに留まっていた。まだ、食する習慣はなかった。

「女将さん、帰ったら直ぐにでも、買いに行く事にしましょう」

「そうね、宜しく頼むわよ」

「分かりました」

 佐市は、家に帰ると直ぐに、博多浦へ向かう準備に取り掛かった。家を出ると船溜りに向かった。

坊の浦にある船溜りには、人影もなく静まり返っている。明日の出漁の為に、皆、今頃眠っているのだと、佐市は思った。

横一列に、数多く繋がれている船の中から自分の船のロープを、手前に手繰り寄せて、飛び乗った。体が、宙に浮くような感じがする。船に乗った時の独特な感触で、陸とは、また違った感覚である。

 佐市は、帆を張り、船首をゆっくりと沖へ向けた。

船は、風を帆に受けて沖を目掛けて、走り出した。波飛沫が、船の上にあがる。船が、少し揺れだした。船は、波に乗って順調よく走っている。寺ケ崎を躱り、番所を横切って、峰ケ崎へ進路を向けた。

<吉原吉衛門様は、今頃、この船を見ているに違いない。手でも振ろうか>と 佐市は考えたが、<吉衛門様の事だ、また大きな声で、佐市!と、怒鳴るであろう。ああ、止めた、止めた> 佐市は、心の中で呟いた。恥ずかしい思いをすることになると、佐市は思った。峰ケ崎の沖に、浮かぶ小島を躱り、丸木崎に進路を向けた。右手には、泊浦が見えている。リアス式海岸で、複雑に入り組んだ海岸線は、透き通る青い海と、打ち寄せる白波に包まれ優美な姿である。

船が大きく揺れ、今度は、ピッチング(縦揺れ)が激しくなった。<時化だしたか> スピードをあげなければと思って、風に帆を一杯にたてた。東支那海から打ち寄せて来る波に、船は大きく傾きかけた。帆の向きを少し変えて、船の傾きを直す。

「これで良し! 上手く行ったぞ」

船は風に乗り、スピードを増した。丸木崎に浮かぶ小島は、時として航海の邪魔にもなっていて、難所となっている。その、難所である小島を、佐市は意図も簡単に躱って、唐岬に進路を向けた。ゴツゴツした岩場が、佐市の前に迫って来る。

「海は、綺麗だなあ」佐市は、おとぎの国に引き込まれて行くような、海の透き通る蒼さに身を乗り出していた。こんなにも、素晴らしい海は、時として怒り荒れ狂う。凪の時には、静かでまるで女性を見るかのようだ。そんな、海を佐市は愛していた。

右の方に、網代鼻が見えている。<あの鼻を躱ると、久志浦だ> 

久志浦の町並みが、海のブルーと山のグリーンに、映えている。前には、砂浜が長く広がり、静けさを感じる。

久志浦に着いた佐市は、船首を港の中ほどに向けると、大きく手を広げ息を吸った。美味かった。気づかなかった汗を拭いた佐市は、近づく港に、「無事に辿り着けた・・・これで、女将との大役は、半分果たしたようなもんだ」と呟き、安心するのであった。

唐人町は、久志浦の右手の奥まった入江にある。その入江を、博多浦と称していて停泊船も多かった。

 久志浦の中に入って行った佐市は、右手の奥に見えている小島に進路を取った。その奥が、博多浦になっている。小島を躱り、右に大きく回って博多浦へと入った。

 貿易船と漁船が錨を打っている。その中を通り抜けて、船をゆっくりと岸に着けた。

急いで上陸した佐市は、足早に唐人町を目指して歩いた。石畳の細長い道が、大きなカーブを描き続いている。黙って暫らく歩いた。

石垣が、少し見えている。日本で最初の、チャイナタウンである。石垣の城壁が、唐人町を取り囲むような作りである。外敵を防ぐ為の物でもあり、台風に因る被害を防ぐ為の防護壁でもある。その城壁を、よじ登って唐人町に入るのは、不可能に近いと佐市は思った。何か仕掛けがしてあるような、無気味な感じさえしてならない。佐市の感じた通りに、そこは外部からの侵入を防ぐ為のさまざまな仕掛けがしてあった。

石垣を左手に、細長い石畳の道を暫らく歩き、佐市は、唐人町の門を入って行った。静かな町の佇まいであり、坊の浦とは、また様式を異にしている。蝉の声が、遠くから聞こえて来る。日陰が家の角に出来るような作りになっていて、冷んやりとした空気が、佐市を包んでくれる。鬼瓦が、佐市を睨んでいるようにも思えた。

「何だか、迷路のようだ」と佐市は呟いた。同じ所を、さっきから行ったり来たりしているような錯覚になっていた。

「待てよ。この道は、確か先程?」

錯覚ではなかった。佐市は、道に迷い込んでいた。何度も、訪れている唐人町なのに、佐市には、不思議でならなかった。どこで、迷ったのだろう? 考えても、分かる筈はなかった。外敵の侵入を防ぐ為に、時々、町の模様変えをしていたのである。

「よし、構わない、進め!」と、構わず歩いた。それが功を奏して運良く、知り合いの家の前に辿り着いた。

「周さん! 居ますか?」 庭先を覗いた佐市の目の前には、大勢の若者達が何やら作っているようにも見える姿が飛び込んで来た。よく見ると、蛇や人の大きな頭のように見える。

「こんにちは、佐市さん。ようこそ」佐市に気づいて若者達が、口々に挨拶をする。佐市も同じ世代の若者達に、丁寧な挨拶を交わした。

自分のことを覚えていてくれたと思うと佐市は、嬉しかった。歓迎してくれている皆には、有難うと言いたい心境だった。

「やあ、佐市さん。よくお出で下さった」佐市の親友、周福徳である。外のざわめいた挨拶に来客を知って、髭を生やした大柄の周は、家から出て来た。佐市に近づいて来て、にっこりと微笑んだ。

「周さん、暫らくでした。お元気でしたか?あの節は、色々お世話になりました」佐市は、いつかのお礼を言った。

「さ、さ、挨拶は、抜きにして、どうぞ中へお入り下さい、佐市さん」急せるようにして、佐市を部屋の中に迎い入れた。右手を椅子に向けて、腰掛けるように薦める。テーブルの上には、さじんの花が生けてあった。<そうか、今頃咲んだったよなあ・・・この花は> その花の香りに、お母さんから作ってもらった、さじんの葉っぱで包んだ手作りのお団子を、佐市は懐かしく思い出していた。

 椅子に掛けた二人の前に、時計草で作った手作りのジュースと、竹篭になにか山盛りに積んである物を、周の妻である華玲がそっと置き終えると、静かに語り掛けて来た。「佐市さん、暫らくだったわね。いつもお元気そうね。きょうは、若い人達が家に集まっているけど、ゆっくりして行ってね」

「はい、華玲さん有難う」華玲のチャイナ服の姿が、佐市には美しく眩しくて、若者達の方へわざと目を逸らさせた。

「ああ、あの若者達ね。近々、お祭りがあることになっていてね、その為に、ああやって準備をしている所ですよ」周は若者達が、何やら作業をしている方を指差して、佐市に言った。

「お祭りですか?」と言って、時計草のジュースを一口飲んだ。花のような甘い香りと、蕩けるような甘さが、佐市の喉元を通り過ぎて行く。「う〜。なんて美味いんでしょう」思わず佐市は、呟いた。

「そちらの、チョンもどうぞ召し上がれ」

華玲に勧められて佐市は、竹の笹で三角に包んであるチョンをひとつ手に取った。竹の笹を開いて、中の餅を一口食べた。格別な味が、口の中に拡がる。<時計草のジュースと合う> と佐市は思った。チョンは、唐人巻きと云う名前で、廻船問屋や豪商達や唐人宿でも食されている。中の餅米が柔らかく炊けていて、粘りがあり、中に小さく刻んだ豚肉が入っていて美味しかった。

周も、グラスに注がれた時計草のジュースを飲んでいる。グラスを置いて、お祭りのことを話しだした。

「龍の手入れなどが済んだら、踊りの練習に取り掛かるんだけど、毎年やっているし、それ程、時間はかからないと思うのだがね」

「あれは、龍だったのですか?」

「蛇踊りと言ってね、龍を使った踊りなんだけど、龍の動きを覚える迄には、可成な時間がかかる。直ぐには、出来ないでしょうね」

「そうでしょうね」と、佐市は納得した声を出し、頷いた。。

「踊りの後には、花火を上げて、その後には灯篭を海に流して、御先祖様を供養します」

なんて、忙しいお祭りだと佐市は思った。

「以前は、別々にやっていたのですが、皆が一度に集うことが少なくなり、そうやって一緒に済ませようと云う事になったのです」

 腕組みをして、また周は続けた。

「私達が、坊津へ来て、もう三世の時代になりました。随分と、時が流れました。ここが、私達の故郷になりました。唐へ、帰ろうと言う者は、恐らくいなくなるでしょう・・・」

「・・・苦難の道を乗り越え、辿り着いた御先祖様を決して忘れない為にも、そのようなお祭りがあります」

佐市は、うんうんと頷いている。唐人町の人達は、坊津の人達とその生活様式に馴染み、一緒になって生活している。幕府からは、手厚く保護されていて、既に彼らは、坊津人に成り切っていたのである。

「時は、人を忘れ。時は、また人を作る」周は溜め息をつき、佐市を見て言った。

「うむ〜ん。時は、人を忘れるですか」佐市も、溜め息をついていた。どうせなら時は、永遠だと言って欲しかった。

長い沈黙があった。佐市は、すっかり女将の用事も忘れて、周の話に聞き入っていた。

佐市は、思い出したように切り出した。

「ところで、周さん。今日お伺いしたのは、村上屋の女将さんから、頼まれて来たのです」

「ほう、唐人宿の? あの村上屋の、女将の御用でわざわざ?」

「はい、実は、黒豚を二頭ほど、譲ってはもらえないかと」

「二頭もですか?」

「はい、村上屋で使う分と、今、入港している唐船の食料用に」

「それは、簡単なことですが。唐船とは?」「はい、梁船長の船です」

「梁さんは、坊津に来ていたのですね。噂は聞いていました」

「はい、そろそろ、唐へ向けて出帆する手筈になっているようです」

「そうでしたか・・・」

「ところで、今回は、鄭貴さんは御一緒じゃないのですか?」

「私も、お会いしたかったのですが、梁さんだけでした」

「私達の為に、鄭貴さんは・・」と言って、佐市は、自分の胸元に手を入れて、鄭貴から貰ったネックレスを取り出した。

「これです」

「翡翠、じゃないですか? うん、これは、素晴らしいですね。幸せを呼ぶ石ですよ」手渡されたネックレスを、周は手に取り、観察して言った。

「そんな、素晴らしい物を頂きました」

「それは、良かったですね。私達というと、恋人のお紗江さんですね?」佐市は、そうだと周に頷き、微笑んで見せた。

「成程、そう云う事でしたか。鄭貴さんは、佐市さんとお紗江さんに、幸せになってもらいたいのですね」

頷く周は、<よしよし>と、言っているようにも、佐市には思える。

佐市にネックレスを返すと、周は話題を変えた。

「それじゃ、佐市さん。黒豚を見に行きましょう」「はい」

 少し離れた所に、飼育所があった。そこには唐人町の黒豚が、まとめて飼育されていて共同飼育所になっている。

 周と佐市は、並んで歩いた。

いつか聞いたことのあった、豚の泣き声が聞こえて来る。飼育所まで、もう直ぐだと佐市は思った。

長い平屋の、飼育所が目の前に見えている。若い女の子がひとり、豚に餌のような物をやっているのが見えた。二人は、音を発てず静かに、飼育所の休息所に近づいて行った。

「揚さん、居るかい?」周は、休息所を覗いて言った。

 豚の世話は、一日交替の当番制になっていて、男一名と女二名がひとつのグループを作っていた。

「周さん、どうしたんですか?」揚は、不思議そうな顔をして、佐市の方を見た。佐市は、揚を見てにっこり微笑んだ。

「佐市さん、暫らくですね。長いことお会いしていませんが、お元気でしたか?」

「元気ですよ。揚さんも元気そうですね」

「私はほれ、この通り、元気一杯ですよ」揚は、右腕を捲って力こぶを作って佐市に見せた。男らしい筋肉が盛り上がっている。

「成程、元気ですね」佐市は、揚を見て笑った。

そんな、二人の会話を止めるかのように、周は、揚に、「佐市さんが、豚を二頭、欲しいと仰るんでね、見せに連れて来たんだけど」と、静かに落ち着いた声で言った

「そうでしたか、さあ、遠慮しないで見て行って下さい。佐市さん」

「さ、こちらへ、どうぞ」揚は、周と佐市を、豚舎の方へと案内する。

先程の若い女の子が、小さな壷を抱えて豚に水をやっている。良く見ると、焼き物で出来ている水差しの把手には、子豚をあしらってある。子豚が、二頭両方に付いているのが見える。<何とも凝った水差しだ。豚の世話をする入れ物に、豚の把手とは!> と可笑しくなったが、佐市は、笑いを堪えていた。

「どの黒豚が、お望みかな?」揚は、腕組みをした。

「皆、丸々太っていますね、揚さん。どれにすれば良いのか、迷ってしまいますよ。しっかりしたのを買って帰らないと、村上屋の女将さんに、怒られそうですよね」

「揚さん、向こうののは、どうだろうか?」周は、選ぶのを迷っている佐市を見かねて、<向こうには、まだ凄いのがいる>と云うような顔をして見せた。腰に両手を充てる。自信のあるポーズである。

「そうですね、宜しいのですか? 周さん」「佐市さんだから、良いではないかな?」

佐市は、周と揚の会話を聞いていて、何かただならぬ豚が居るのではないかと思った。<まさか、凄く大きな豚とか、物凄い顔をした豚ではあるまいな> 興味が湧いてくる佐市である。「なんですか?」と、佐市は聞こうとしたが、周は、すかさず続けた。

「佐市さん、こちらへ御出でなさい」周は、別棟の方へ歩きだした。誘われるままに周の後をついて行く佐市は、早くその豚にお目にかかりたいと焦っていた。<これは、村上屋の女将さんに喜んでもらえそうだ>

 周の足が止まった。 <着いたな>

「こちらに居るのが、私達が話していた黒豚ですよ」と、周は佐市に微笑んだ。

佐市は、どこがどう違うのかと、目を凝らして黒豚を見た。周は、<よし! よし!>と、豚に声を掛けて、黒豚の頭を撫でている

「周さん、私には先程の黒豚と、さほど変わらないように思えるのですが、どこがどのように違うのですか?」佐市は、不思議そうな顔をした。

「先程見て来た豚は、唐で飼われていたのを輸入して育て、増やした豚です。この豚は野性化していた豚を唐から輸入して、先程の豚と掛け合わせた豚なのです」

「野性の豚とですか?」

「そうです。何故、そうしたのか? 解りますか、佐市さん。輸入した豚を、育てて増やして行けば、いつか豚に変化が起こり、病気の豚が生まれたりするようになります。豚は、いつの日か、全滅することになるのです」

<変化が起こるとは、またどういう事だろうか?> 豚は、いつかは全滅するという。これは、ただならぬ事だと佐市は、周に心配した顔を見せた。

「そう云う訳で、野性の豚をわざわざ唐から輸入して、先程の豚と掛け合わせて、新しい豚を作ったのです。そうすれば、先程の豚も野性の豚も、長く生き永らえることが出来るようになるのです」驚き、聞き入っている佐市を見て、周はまた話を続けた。

「血を薄くして、あげるのですよ」佐市は、やっと解ったような気がした。野性である赤の他人の方が、良いのだと周は言っているのだと、勝手な解釈で納得して見せる佐市であった。

「周さん。それじゃあ、この豚は、どこかに違いがあるのですか?」

「この豚は偶然にして生まれた豚で、今はもう十八頭にもなりました。繁殖力があり、子供をたくさん生みます。お肉が柔らかくて、美味しいのですよ」

「そんなに、美味しいのですか?」

「そうですよ。それは美味しいお肉です」

「周さん、そんな豚だったら、村上屋の女将さんも大喜びですね」

「そうでしょう。この豚で良いですね? じゃ、二頭、若者達に船まで運ばせておきましょう」「有難う、周さん」

周も佐市に喜んでもらえて、佐市も、また大切に育てられていた豚を譲ってもらえることに頗る満足した様子であった。

待合所に戻り、揚達に挨拶を交わした佐市と周の二人は、飼育所を後にして、周の家に帰って行った。

庭先では相変わらず、若者達が龍や人の顔よりも大きな人形作りや、手入れ等をしている。庭の片隅では、龍の動きと思われる練習をしている。お祭りも、準備が大変だと佐市は彼らの練習を、じっと眺めていた。周が、若者達に何か話している。<黒豚のことだな>

話が済んだようだ。周は佐市の所に戻って来て、家の中に入るように言った。二人は、また応接室にあがり、テーブルの椅子に腰掛けた。心地よい、音色が部屋の奥から聞こえている。心が洗われるように、佐市には思えた。佐市は、メロディーと音の、あまりの美しさに、顔の汗を拭いている周に、あの音は何なのか? そっと尋ねた。

「ああ、あれね。楊琴と言って、弦を打いて音を出すんですよ。娘の鈴々が弾いているのです。まだまだ、練習しなければね」

「すごく上手ですね。好い音で、心が吸い込まれて行きそうです」

「そうですか?」と言って、周は嬉しそうに、佐市の方を見て微笑んだ。

佐市は、鈴々の演奏に聞き惚れている。いつまででも、聞いていたいような音色だった。

 庭の方に目をやった周は、若者達の作業が済んだのを確認して、暫らくの間、部屋で待っているように佐市に言った。佐市を残して庭に出て行った。

 佐市は、相変わらず出された烏龍茶を飲みながら、鈴々の演奏を聞いている。「お茶も美味いが、琴の音も素晴らしいなあ」また、一口飲んで味わった。この唐人町で摘まれた、一番茶である。唐人町には、庭や町の至る所や畑には、お茶の木や綿花の木が植えられてあって、自給自足が出来るようになっている。その残った物を、口に合うように改良して新しい日本茶を作り出し、村上屋や豪商達に卸していた。唐人茶として、唐から輸入したお茶と共に、重宝がられている。

うっとりと楊琴の音色に聞き惚れている佐市に、周が静かに声を掛けて来た。

「佐市さん、今日は唐人町の若者達と一緒に食事といきましょう」そう言うと、周は、若者達を部屋へ招き入れたのであった。

佐市を囲んで、若者達が座った。ひとつのテーブルでは、足りずに新しくテーブルを出し、賑やかな食卓である。

 部屋が静かになった。若い女の子達と華玲が、運んで来た料理を、各テーブルの上に置いている。

テーブルの上には、大きな鍋と皿や調味料などが置かれていった。料理は、全部運び終えたようである。

 それを見計らって、周は立ち上がり、皆を見渡すようにして言った。

「今日は、祭りの準備など御苦労様でした。明日からは、蛇踊りをする者、花火を打ち上げる者、灯篭を作る者に分かれて、練習や準備をするように」周は、真剣な眼差しで話を続けた。

「解らない所は、各班の班長とよく話し合って行なうように」

周は佐市の方に目をやり、皆を見渡した。

「今日は、坊の浦から佐市さんが、みえたので、お祭り準備食事会を急きょ、佐市さんの歓迎会にしたいと思います」と言った周は、微笑んだ。楽しそうな笑顔を見せて話を続けようとした時、拍手が起こった。皆、佐市を歓迎するかのように拍手は、なかなか鳴り止まない。

周は、<うっ、うん!>と咳払いをして、拍手を遮り、佐市を見た後、皆の顔を撫でるように見渡して、また続けた。

「お互いに、日頃疑問に思っていること等があったら、食事をしながらでも話し合ってみるように」

唐人町の若者達は、周の言葉に、不思議そうな顔をしている。

<心を開いて、打ち解け合うように>と、言っているのだと、佐市には思えた。

「それでは、食事を始めよう!」と言って、周は腰を掛けた。

皆は、それぞれに鍋の中の料理に、箸をつけ始めた。いろんな具が鍋の中には、入っている。美味そうだと思って、箸をつけようとした時、周が近づいて来た。「佐市さん、そこに入っているのが、先程の黒豚ですよ。まずは、食べてみて」「これですか?」

周は、佐市の横に立ち、佐市がその黒豚を食べるのを、じっと待っていた。

佐市は早速、言われたままに、黒豚だけを小さな受け皿に、少しだけついで、そっと食べてみる。豚肉を食べるのは、初めてではないが、その黒豚の肉質の柔らかさと、味が佐市にも解った。

「美味い! 周さんこの肉は、美味いです」思わず、叫んでいた。

「そうでしょう、この肉は、苦心して掛け合わせて作った、自慢できる豚肉です」周は、自慢げだった。皆で、丹精込めて育ててきた肉である。<美味くない筈はない> 佐市に、この肉の良さが解ってもらえたことに満足だった。

「佐市さん、さあ、ゆっくり召し上がって」 小さく数回頷き、佐市を見て言った。

「はい、有難うございます。頂きます」

佐市には、さり気ない周の心遣いが、とても有り難かった。深い感謝の気持ちを、周への会釈として表わしていた。

「それでは」と言って、周は自分の席に戻って行った。

 皆、話に花が咲いているかのように賑やかで、食事も進んでいる。

「佐市さん、酒を注ぎましょう」同じ鍋の料理を囲んで食べている若者が、焼き物で出来ている唐製の酒瓶を手に持って薦めた。佐市は、少し大きめの唐製の杯を手にして、その若者の前に差し出した。 

若者の名前は、李寛。若者達のリーダー的存在である。彼は、語学が達者で中国語は勿論、朝鮮語やジャワ語を自在に操ることが出来た。太極拳の達人でもある寛は、いつか、それらの国々と広く貿易をしたいと、意気に燃えていた。

「李さん、暫らくお会いしませんでしたが、お元気でしたか?」

「元気でしたよ。佐市さんも、随分と元気そうに見えますが、お元気ですか?」

佐市は、寛に元気だと答え、同席している皆と再会を喜び合い、酒を飲み交わした。

町は飛び石のように点在していて、幕府の管理下にあり、貿易船が出入りするといった特殊な環境にあって、同じ、坊津に住んでいながら、会う機会が殆どなかったのである。

佐市は、栄松山興禅寺で学んでいるということや、先日、遣唐使船が四隻、遣唐使を乗せて坊の浦から唐へ向けて出帆したこと、恋人お紗江の話をした。

「遠い、異国へ?」寛は、興味深く料理を食べながら聞いていたが、ふと思い出したように言った。

 短い沈黙があった。寛は、思い詰めた顔になっている。

「佐市さん、私達は、祖国を思い出すことは殆どありません。遣唐使のように、情熱を持って我が祖国に、命を掛けてまで学びに行こうという気力も薄れたようです」そう言うと、深く溜め息をついて、佐市を見た。寛の目頭が、熱くなっているのを佐市は感じていた。

「私のような年代になると、祖国とはどいう所なのかも分かりません。坊津における文化は、私達の文化になっています」

 彼らは、唐から新しい文化をもたらし、坊津に融合していた。何を悩む必要があるのだろうかと、佐市は不思議に思った。

「李さん達の先代や遣唐使などは、坊津に新しい文化を運び、全く新しい文化を創って来たではありませんか?」佐市の声は、熱っぽくなっていた。いつになく真剣である。

「李さんもこの坊津にあって、全く新しい文化を皆と一緒になって創って行けば、それで良いではありませんか? 文化は、常に新しく生まれ変わる。そうではありませんか?」俯いて、じっと聞いている寛に向かって、佐市は、我が思いをぶつけるように話した。

「お祭りのような、伝統的な文化も大切でしょうが、何も祖国の古い文化に、こだわる必要はないのではありませんか?」

「新しい文化を?」寛は、佐市の目を見詰めて言った。

「そうです。創っていけるでしょう?」佐市は、説得するように言った。寛は、やっと納得したとみえ、小さく頷いている。

佐市は、続けた。

「皆に感動を与え、受け入れられてこそ、文化だと思います。うわべだけの文化は、直ぐに消えてしまいますよ」

「そうですね。仰る通りです」

<そうだ、新しい文化を皆と一緒になって創って行こう> と寛は、佐市に大きく頷いて見せた。

佐市は、寛と解り合えた事を、嬉しく思った。遠い祖国と坊津との、心の板挟みになっているのだと、佐市には思えた。

「何を、そんなに真剣な話をしているの?」 後から佐市に、声をかけて来た。ぼんやりと考え込んでいた佐市は、一瞬驚いて振り向いたが、見慣れた顔に微笑んだ。

「誰かと思えば、美麗じゃないか。紫陽花の花は、今年はどうだった?」

「今年もね、綺麗な花を咲かせたわよ。佐市さんにも、見せてあげたかったわ」任美麗は、時として色の変わる、更に場所を変える事に因って、色が自在に変わる紫陽花の花が好きだった。自分も、紫陽花の花のように、この地で色を変えて生きて行きたい。この自然優美な坊津に、根付いて生きたい。大きな大輪の花を、いつか大空一杯に咲かせて、実らせたいと思っていた。そんな大好きな紫陽花の、花の手入れは欠かさずやっていた。

「ここへ、掛けたらどうだい?」佐市は、近くにあった腰掛けを、自分の近くに寄せて、美麗の隣に置いた。

「お紗江さんは、元気にしている?」美麗は、佐市に有難うの会釈をして、腰掛けにかけながら静かに尋ねた。

「元気だよ。一緒に連れてくれば、良かったんだけどね」

「そうよ、連れてくれば良かったのに。色々話をしたかったわ」美麗は、残念そうな顔を見せた。

「村上屋の女将さんの用事でね、急だったもんで・・・・・」

「村上屋の女将さんも、元気なの?」

「うん、相変わらず、元気だよ。それに今、梁船長や唐船の船長達が宿泊していてね、村上屋は賑やかだよ」

「梁船長達、坊津に来ているのよね」美麗は、懐かしいと思った。横に腰掛けている佐市の横顔を見ながら、梁船長に、「会いたい!」と、言った。佐市は、梁船長達はもう直ぐ出帆の手筈になっていることを告げた。坊津に出没していた盗賊一味を、全部やっつけてくれたことの一部始終をも詳しく話して聞かせた。

「噂は聞いていたけど、そうだったの・・・今では梁船長達、坊津の英雄なのね」美麗も梁船長達が、盗賊一味をやっつけてくれたという話を聞いていて嬉しいと思っていた。

佐市と美麗は、逢えたことの喜びに話が尽きなかった。

外は、透き通る海に日が落ちようとしている。久志浦の漁船も、出漁の準備に忙しそうである。停泊している貿易船に、夕日がかかりだしている。時は仄かに、いつのまにか過ぎていた。

各テーブルでは、皆さんそれぞれに、悩みをぶつけあっているように見える。

<村上屋の女将さんは、帰りが遅いと今頃心配しているだろうな> 佐市は、早く帰らなければと焦ってきた。

 そんな時、玄関の方から、誰かを呼ぶ声が聞こえる。部屋の騒めきに、良く聞き取れない。聞き取れない呼び声に、皆は話を止めた。

「周さん! 周さんは、御在宅ですか?」若い男が玄関から、顔を出して言った。

知り合いのようである。周は、玄関の方へ歩いて行った。

 周は相手の話に、小刻みに頷いている。手の平を開き、家の中の方へ右腕を回して、「どうぞ」と、来客を迎え入れた。

来客は、三人である。

佐市を囲んでいるテーブルの、近くに立った周は、皆に彼らを紹介した。

「朝鮮半島は、百済の国から使節団として先程、博多浦に立ち寄られた方々で、知っている者もいると思うが・・・」

周は、まず玄関から最初に顔を出した、通訳のひとりを紹介し、使節団長である船長のチョウヨンサム、伴のキムヨンミンを紹介した。佐市には、三人とも初めて逢う人達であった。唐人町を度々訪れていた船長のチョウには、顔見知りの者もいる。

「明日、早朝には、坊の浦へ向けて出帆なさるそうだ。坊の浦と云えば、佐市さん。チョウさんを、御存じではないかな?」

「チョウさん宜しく。お初にお目にかかります」と、佐市は、立ち上がり一礼した。

「ああ、貴方がサイチさんデスカ。噂は、カネガネキイテオリマス」

チョウは、通訳を介す事も無く、話し掛けて来た。百済の民族衣装に身を固めたチョウの姿は、華やかである。佐市を見る目が、優しく映る。肩から何やら温かみの滲み出て来るような、不思議な人だと感じていた。

<どうして自分の事を、知っているのだろうか? 何故?> 佐市は、自分の記憶を辿ってみた。

あれは、確か三年前のことだった。海は荒れ、沖に船など出す者はひとりもいなかった。いるとすれば、それは死を意味していた。丁度その時、嵐を蹴って、坊の浦に入港しょうとしていた船があった。

佐市は、親友の才次と、昨日釣って来た魚をさばいて、酒盛りをする準備をしていた。

「お〜い。船が座礁したぞ!」

その声に、「どこの船だ!」と、佐市は叫んだ。

「なに! 百済の船だと」恐らく、全員助からないと思った佐市と才次は、家を飛び出し仲間を集めた。

<一人でも助けたい>

「有りったけの、綱を集めてくれ!」

「佐市、集めてそれを、どうするんだい!」「綱を、繋ぎ合わせてくれ!」「分かった」

「それで、何本いるんだ! 佐市!」

「二本もあればいいだろう。一本は、船に積んで持って行く。もう一本は、陸に繋いでおいてくれ。出来れば、寺ケ崎辺りが良いのだが。その綱を船に繋いで、俺と、才次で沖に出る! 急いでくれ、一刻の猶予も許されないんだ!」「分った」

「二人だけで大丈夫かい? よかったら、他の船も出すけど」「いや、なあに、心配いらないさ。お前らは、綱の端を持って寺ケ崎へ頼んだぞ! その綱は、直ぐに船に繋ぐ」

風と波に流され、峰ケ崎の近くの岩場に座礁していた百済の船は、傾きだした。波は、岩場に容赦なく打ち寄せる。断崖絶壁の峰ケ崎に、泳ぎ着くことは無理だった。

「急げ!」と、佐市は叫んだ。

船に乗り込んだ二人は、自分の体にロープを巻いた。船に括り付け、寺ケ崎の方に向けて、二人で櫓を漕ぎだした。風と打ち寄せる波で二人は、海に投げ出されそうになる。その度に、櫓を漕ぐのを止めて、船にしがみつく。櫓が、波に流されないようにと船に括り付けてあったが、それでもしっかり掴んで、流されないようにするのは大変だった。陸では、佐市と才次の安否を気遣いつつ、ロープを持って寺ケ崎へ急いでいた。

寺ケ崎の辺りにロープを繋いだという、陸からの合図が出ている。佐市と才次は、今度は、峰ケ崎の座礁船を目掛けて、力一杯に櫓を漕ぎだした。二人は、必死だった。何度も、海へ放り出されそうになりながら、やっとの思いで座礁船に辿り着いた。

才次は、積んでいた別のロープを船にしっかりと縛って、座礁船に投げた。風と波に邪魔されて届かない。もう一度、投げた。運良く、ロープが波に乗り、傾き掛けている座礁船に届いた。才次は、そのロープを座礁船に繋ぐように大きな声で言ったが、嵐の中で聞こえる筈もない。それを察知してか、座礁船では、投げられたロープの端を、マストに繋いでいるのが見える。波が、彼らを覆い被さる。才次は、佐市に手をあげて合図をした。佐市は、短めのロープを船にしっかりと縛ると、そのロープが、寺ケ崎からのロープを自由に移動出来るように、ロープの端を、輪を作るようにして縛った。

寺ケ崎からのロープを船から外すと、体にしっかりと括り付けた。船が、波で座礁船に近づく。

<よし、今だ!> 座礁船に飛び乗り、直ぐに寺ケ崎に繋いであるロープを、座礁船に繋いだ。

「さあ、皆! この綱を掴んでくれ!」身振り手振りで説明する佐市は、焦った。

「分かったね! 船長! あそこまで泳ぐんだ。体に縛った命綱は、この綱に輪を作って括るように。良いね。船長! 皆、良いなっ!」船長は、大きく頷いた。

「よし、行くぞ。ついて来い!」佐市は、荒れる海に飛び込み、自分の船まで泳いだ。命綱は、船に括ってある。

大波に流されながら、やっとの思いで無事に自分の船に着いた佐市は、寺ケ崎へ向けて海に飛び込んだ乗組員達を見守るようにして、力一杯漕ぎ出した。「才次、漕ぐぞ」「よしっ、分かった」

陸では仲間達が、固唾を飲んで見守っている。荒れた海を泳ぐのは、乗組員達にはきつかった。乗組員達は、何度も波に流されたが、命綱が彼らを守ってくれる。溺れそうになったら佐市と才次が、近づいて来ては、船に掴まるようにしてくれる。何度となく、流されそうになる。寺ケ崎まで、もう直ぐだ。

<頑張れ!> 佐市は、心の中で叫んでいた。櫓を漕ぐ手が、痺れている。

 どれ程の時間が、たったであろうか?

寺ケ崎で待つ、仲間の手に支えられて、ひとり又ひとりと、岸へ助けられている。

「助かった!」佐市は、叫んだ。

それを見て安心した佐市は、自分の船を、船溜りに回すからと陸にいる皆に合図を出した。その合図に、皆は手を振り応えている。

風と波に打たれながらゆっくりと、船溜りへと船を漕ぐ。佐市と才次は、波を受けながら無事に船を着かせる事が出来た。佐市と才次の二人は、力尽き、よろめきながらやっとの思いで上陸を果たしたのである。

 百済の乗組員達は、全員が無事に保護されて、村上屋に宿泊することになった。救助された乗組員達は、数ヵ月後に坊の浦に入港した百済の貿易船に便乗して、祖国に帰る事になった。乗組員達は全員、無事に祖国に帰り着いたと云うことであった。

「その時の、船長が私の親友でした」

「そうでしたか」周は、腕を組んで佐市を眺めた。

「良い話を、聞かせてもらいました。佐市さん達の勇気には、感激しました」

「親友は、船を失った責任を取って、今では町の片隅で、ひっそりと暮らしております」チョウは、しみじみと語って聞かせた。佐市に向かって静かな声で、「有難う、あの時貴方がいなかったら」と、声を詰まらせた。

「ささっ、皆さん、そういう訳で大いに飲もうじゃ御座いませんか」周は、酒を勧めた。

佐市は、再び来客を交えて、酒を酌み交わす。

キムが、佐市にお酌をして言った。「アノトキノ船長は、佐市さんにアッタラヨロシク伝えてくれるように、イッテマシタ」

「そうでしたか。もう、坊津にいらっしゃる事はないのですね・・・・・」

「アナタガ、百済国にイケバ、イイジャアリマセンカ?」キムは、いとも簡単に言った。

「私がですか?」佐市は驚いた様子で、キムを見た。

「ソウデス、カンゲイシマスヨ」

<そうか、歓迎してくれるのか。それにしても、坊津弁が上手だ、通訳も必要ないな>

新しい親友が出来たような親しみ深い、そんな思いだった。まだまだ話は尽きない。<ここいらで、お暇しなければ> 村上屋の女将が待っている。「村上屋の女将が心配して待っているだろうから、もう帰ります・・・」と告げて、佐市は皆に挨拶を交わす。楽しい、食事だった。

佐市は、思いがけない来客の事や黒豚の話などを思い出しながら元の道を辿り、博多浦に向かった。

船溜りに着いた佐市は、上機嫌だった。

 ロープを手繰り寄せ、船に飛び乗ると、船倉を調べてみた。船倉の中は暗いが、確かに豚が二頭入っているのが見える。灯りをつけて、覗いてみると、豚の皮は剥ぎ取られて、丸焼になっている。村上屋の女将や、唐船のコック達が、料理をし易いようにしてくれていた。腐食し難いように、表面には薄く塩が振りかけられてある。

「さあ! 帰るぞ!」

 佐市は、ロープを外すと、船首を沖に向けて帆を揚げた。月が水平線を登り始めて、キラキラと海を照らしている。船は鏡のような海面に、影を落として進んで行った。人生という一筋の線を、久志浦に引いて。

 一方、村上屋では、佐市の帰りを待ちくたびれていた。あまりの遅さに、親友の才次も心配して村上屋を訪れていた。

「大丈夫かしらね? 佐いっちゃんは」女将は、才次の杯に酒を注ぎながら、心配そうな声で尋ねた。

女将に言われて、何度、海岸通りへ出て、沖の方から入港して来る船を、眺めに行った事だろうか? 才次は、女将が心配しないように、堂々と落着き払った態度を取っていた。こちらが、うろうろして、落ち着かないでいると、女将は益々心配するであろうとの気遣いである。

「佐市のことです。もう直ぐ、帰って来ますよ。女将さん」

女将の右横に腰掛けている女中のお美代は「こんなに、遅くなったことないのよ。才次さん」と、心配そうに才次を見て言った。

「唐人町には、友達も多いしね。話し込んでいるんだよ、きっと。心配いらないさ」

「そうだと、良いんだけど」

「それじゃ、お美代ちゃん。海岸通りまで、行ってみようか? 今夜は、月も出ているし、海の風にあたるのも涼しくて良いよ」

「そうね、たまには良いかな?」

「女将さん、沖を眺めに行ってきます」

女将は、二人に「気をつけるように」と、言って。丸いテーブルに両肘をつき、深い溜め息を着く。

宿を出て行く二人の後ろ姿に、お似合いだと思った。以前から女将は、才次とお美代は<気が合っている>と、思っていたが、並んだ姿に、<ひよっとして>と云う女の感が、働いていた。結ばれるのではないかと。

石畳の通りを抜けて、海岸通りを肩並べて歩く二人は、何故か楽しかった。佐市の、消息も気掛かりなのに、お美代は歌いたいような心境になっていた。才次も同じであった。

「佐いっちゃんのお船、見えてる?」

「見えないなあ。何処で、油を売っているのかな? 皆、心配しているのになあ」

停泊している唐船や貿易船の灯りが、海に揺れている。海は、静か過ぎて、物音一つ聞こえない。

沖合を見詰めている二人には、時の流れ等少しも感じられなかった。ただ、そこには潮騒が聞こえている。止まった空間が、二人には見えていた。

「佐いっちゃんはね、興禅寺で学んでいるんだって。一緒に学んでみたら?」お美代は、貿易船に目をやった。

「佐市から聞いて知っているよ。誘われているんだけど、どうしょうか迷っているんだ」

お美代の、顔が月の光に照らされて、才次には美しく映る。自分の事をこんなにも、気に掛けてくれていたのかと思うと、やけにお美代の三つ網に編んだ髪を、触りたい心境になっていた。

<いけない、いけない。俺としたことが!> 才次は、心の中で叫んだ。

「迷っているんだったら、佐いっちゃんと一度、興禅寺へ行ってみれば? その方が良いんじゃないの? 何か、答えが出るかもよ」

「そうかも知れないね。当たって砕けろ、ということかな?」才次は首をゆっくり回し、沖合に目をやった。見慣れた船が、坊の浦に入港しようとしているのが見える。<佐市の船では?> 「お美代ちゃん、佐市の船だ! 船が入って来る!」

「何処、何処よ! 才次さん!」

「ほら、あそこの沖合」才次は、沖合を右手の人差し指で、指差して教えた。

「あれが、そうなの? 私には良く分からないわ。才次さん」

 月の光は、その船を包んで、くっきりと浮かんで見せている。確かに、それは佐市の船であった。佐市は、才次とお美代ちゃんが心配して、迎えに来ているとは思いもしなかった。船溜りの方へ舵を、取った。

「私、女将さん達に、報せてくるわね」

「俺は、船溜りの方へ行ってみるよ」

「それじゃ、また後でね」

才次は船溜りへ、お美代は村上屋の方へ急いで戻って行った。

 村上屋では、女将と船長の梁が、いつもの応接室で話し込んでいるところであった。玄関から飛び込んで、入って行ったお美代は、大きな声で叫んだ。

「女将さん、佐いっちゃん! 帰って来たわよ船が! 佐いっちゃんの、船が!」

 お美代は、下駄を揃えることもせずに履き捨てて、応接室に駆け込んだ。

「なあに、お美代ちゃん。その慌てようは。船が、船がってあなた。大きな声を出さなくてもちゃんと聞こえているわよ」

「御免なさい、女将さん。佐いっちゃんの、船が帰って来たの」

「聞こえたわ。嵐でも来たかのような、騒ぎようね、お美代ちゃんは・・・・・」

 お美代にとって、佐市の存在は兄のようであり、自分を包んでくれる春の日差しのようでもある。いつも温かく、さり気ない優しさは憧れでもあった。

 女将は、急に落ち着き払った様子で、梁に微笑みを浮かべて、お茶を一口啜った。摘みたての、一番茶は蕩けるように喉元を過ぎて行く。そんな女将を見て、梁は言った。

「オカミサン、帰ってきたヨウデスネ。若い者をヨコシテ、黒豚ヲハコバセマショウ」

「お願いするわ、梁さん」

 梁は、急いで部屋から出て行った。

「お美代ちゃん。あなたも、お茶でも飲んだら? 佐いっちゃん達、直ぐに帰って来るわよ。さあ、立っていないで掛けて」

 船溜りに近づいた佐市には、才次が迎えに来ている姿が見えている。才次は、大きく両手を上げて振っている。

<迎えに来てくれたのか!> 佐市も右手を上げて、大きく振って返した。皆が心配しているということは、分かっていた。<今回は、帰るのが遅くなった>と、少し反省する佐市である。

 船溜りに着くには、それ程、時間はかからなかった。

「心配掛けたな!」ロープを、才次に投げた佐市は、申し訳ないような声で言った。

「女将さんも、御両親も皆心配しているぞ」慣れた手つきで、才次はロープを括り、船を手繰り寄せた。

「そうだと思っていたよ」

「ま、話は後だ、佐市」と言った才次は、後を振り向いた。

村上屋に宿泊している梁船長の船の、若い乗組員達が五人立っている。

「佐市さん、黒豚ハ、ワタシタチガハコビマス。梁船長に、イワレテキマシタ」と、話し掛けてきた。

「そうですか。船倉に入っているんですが」

若い乗組員三人は、佐市の船に次々と飛び乗る。船は、少し揺れたが直ぐに修まった。彼らは船倉の中から、一頭を取り出した。

「後のもう一頭は、この船で貴船まで、運んだら良いでしょう」「そうします」

佐市は、若い乗組員達に言うと、ロープを手繰り寄せて、船を陸に近づけた。

取り出した黒豚を、乗組員達と陸に降ろすと、才次と並んで村上屋に向かって歩きだした。乗組員の二人が、黒豚を抱えて佐市達の後からついて来る。佐市の船は、唐船に向かって進んでいるのが見える。静かな海に、櫓を漕ぐ音が軋んでいる。月の光に照らされて、佐市と才次は、笑っていた。友の無事に、才次は肩を撫で下ろしていた。

 

 

 

 それは、小雨の降る朝であった。高見の高台にある山内家にはひとりの来客があって、彦佐衛門は手厚く接待していた。都より昨日、貿易船に便乗して坊の浦に着いた近衛家の特使である。彦佐衛門と向かい合わせに正座して座っていた。太刀は右側畳の上に置き、背筋を伸ばしている。ほっそりとした身体つきに、彦佐衛門は頼りなく感じていた。庭には、梅の木が見える。その近くには、文旦の木があって、小さな実を鈴なりに実らせていた。

「それで、斎藤殿。今年も、交代の者は来ないので御座るのか?」彦佐衛門は、腕を組んで何やら考え込んだ様子を、斉藤義乃助に見せた。

「そうで御座いますなあ、なにせ、都より遠い坊津。お役を自分から願い出る者もなく。それなら、この地に人望の厚い山内様にと」

「拙者に、お役を続けるようにとのことで御座るのか?」

「実は、近衛様直々のお達しで・・・」

「うむ〜。左様で御座るか・・・・・」この地に住むことは嫌ではなかった。むしろ、都の華やかさは無いにせよ、坊津の住民と一緒になって笑え合えることが意義あることだと思っていた。

「交代の期限は、とっくに過ぎているので御座るが、御承知願いますか?」義乃助は、彦佐衛門を覗くようにして、説得するかのように力強い声で言った。

「宜しゅう御座る。お役を続けましょう」義乃助に、笑顔を見せた。

「いやいや、山内様にそのように仰て下されば、有り難いです」

 ほっと、胸を撫で下ろした義乃助は、溜め息を着いた。彦佐衛門に断られたら、どうすれば良いか思案していた。都の生活に慣れている侍にとって、坊津の生活は質素で、中央の政とは一切が切り離されて、ここに流されたようなものである。

 ところが、彦佐衛門はその切り離された生活にこそ、異国との交流と知識を得る絶好の機会があると考えていた。自ら、逆手にとって先頭に立ち、親交を深めていた。

「雨も、あがったようで御座るな」彦佐衛門は、庭先に目をやって言った。

話の決まったことを知ってか、昨夜から降り続いていた雨は、あがっていた。

 義乃助は、都の事などを彦佐衛門に話して聞かせた。<華やかな生活とは、なんと無駄なことか> 遠く離れたこの地に於いて、せっかく納められた、命を掛けて作った彼らの唐物税を、いとも簡単に、酒宴の席に使うとは、<なん足る事か!> 彦佐衛門は、住民の汗の結晶である事を、充分に心得ているが故に、腹立たしくなっていた。

 その頃、宮田源之進は二人の者を伴って、坊津の町を探索中であった。

 坊の浦は、真ん中に鶴ケ崎の浅瀬が突き出ていて、左右に二つに分かれている湾を形成していた。鶴ケ崎は鶴の嘴にあたり、鶴が大きく羽を広げている左の羽の湾が、坊の浜と呼ばれ、右の湾が下坊と云い、その奥を深浦という名で呼んでいた。

深浦には、樹齢数百年と云われる大きなアコウの木が数本、覆い被さるように生えていて、昼間でも少し暗かった。少し狭くて奥くゆきがあり遠浅になっていて、谷川から流れて来る水が、雨の降る度に滝のように流れている。奥には、石作りの井戸が三個並んでいて、石の屋根が作ってある。中坊から、石の階段を下りて、深浦に来られるようになっていた。中坊や門前町の豪商達は、小舟をそこに繋ぎ、井戸水や食料を沖の貿易船に運んだり、そこから出入りしたりしていた。検問が手薄な所で、盲点になっている。源之進も、それは充分承知していた。

その深浦辺りに来た時、並んでいる小舟の近くに物陰を感じた源之進達は、石段を下りると、小舟に近づいた。

伴の者が、大きな声で叫んだ。「誰じゃ! そこにいるのは?」

物陰から三人が、源之進達の前に出て来た。真ん中には、源之進の顔見知りがいる。

「青野殿か? 如何なされた!」廻船問屋を営む青野伝八は、真っ青な顔をしている。<これはおかしい> 源之進は、目を凝らして良く観察するように見た。<後の方から、短刀を突き付けられているのでは?> という直感が働いた。両脇は、見慣れぬ侍達である。

「両脇の御仁。そち達は、島津の密偵ではないのか? 卑怯な真似をせず、勝負せよ!」

島津などの豪族達は、密偵を度々放ち、隙あれば、坊津を手に入れようと企んでいた。坊津は、唐や琉球王国、それに朝鮮の百済や新羅などの国々と貿易をして、莫大な唐物税を幕府に納めていた。それ故、坊津を手に入れて、その財力を我が物にしょうと考えるのは当然のことであった。

「島津の田舎侍! 我ら、関白、近衛家の家臣なり! 幕府の命に因り、この地を守る者ぞ」

「何っ!」と、言ったひとりが、伝八を払い除けて源之進の前に進み出た。もうひとりも、ゆっくりと前に出て来た。二対三で、源之進に有利であったが、源之進は、伴の者に手出しはしないように言い放った。二人は、<はっ!>と言って、太刀から手を離した。二対一で、間違いなく源之進の不利となった。

 相手は、太刀をゆっくり抜いた。中段の構えから、左足を一歩踏み出し、ゆっくりと両手を上げ右側の耳元に刀を垂直に立て、八相の構えになった。示現流の構えである。<やはり、そうであったか>

源之進も、太刀をゆっくりと抜き、正眼に構え間合いをとり、剣先を相手の喉元に向けた。次にゆっくりと相手の隙を伺いながら、右足と同時に太刀も右に大きく後に開き、切っ先を右脇に開いて脇構えとした。左の肩は隙だらけで、打ち込みを誘う手である。

対するもうひとりの男も、同じように八相に構え、源之進の打ち込みを誘っている。

源之進の構えに、対する二人は、なかなか打ち込んで来る様子はない。

源之進は都にいる時、無念流の範士について、道場にて修業していた。示現流には、第二の太刀が無いのに比べて、無念流には第二の太刀第三の太刀が有り、相手を生かす活流剣でもあった。示現流は、最初の太刀で相手を倒さなければならない。振りかぶる第一の太刀で、相手を押し切って行かなければならない為に、普通の太刀よりも太く作られている。坊津に着任の折り、示現流などの太刀さばきは、研究し尽くしていた。

源之進は、ゆっくりと下段に構えを変えた。同じように、誘いの手であるが、相手は身動きひとつしない。

数分の沈黙の後。

「やあっ!」と、相手が大きく振りかぶり、気合いと共に、源之進目掛けて斬り付けて来た。正面に打ち込まれた源之進は、太刀を上に中央で相討ちとし、直ぐに左手を、太刀の中央後部に添えた。

 思った通り、相手は太刀でぐいぐい押し込んで来る。すかさず、相手の力を利用して、相手の太刀から自分の太刀を躱して、体を少し右に捻り相手の体を避けた。一瞬の隙を見て源之進は、相手の喉元目掛けて、剣先を力一杯に突き刺した。

「うわあっ!」太刀が、喉元を突き通った。相手の血が、空高く舞う。悲鳴をあげて、前に倒れ込んだ。

「とおっ!」 対するもうひとりの男も、源之進目掛けて振りかぶって来た。素早く、太刀を喉元から引き抜いた源之進は、左斜め上段から打ち込まれた太刀を、上段中央で相討ちとした。

相手は、先程の突きの一手を嫌って直ぐに離れた。すかさず今度は、右斜め上段から打ち込んで来た。

「やっ! やあっ! やっ!」右、左と躱した源之進は、ゆっくり後に引いた。中段の構えから大きく振りかぶって打ち込んで来る相手を、右足、左足と踏み出しながら、すれ違いざまに相手の右胴を斬った。

「うぐっ! あああっ!」相手は飛び散る鮮血と共に悲鳴をあげて、ばったりと倒れた。

<倒したか!> 源之進は、心の中で叫んだ。 源之進には一瞬の出来事のようでもあり、長い時間だったようにも感じられた。

後を振り向いた。小船の物陰に三人、ロープで縛られているのが見える。<手出しの出来ないのを知ってか、ひどい事をするもんだのお・・・薩摩の奴らは>

伴の者二人が、源之進の所へ駆け寄って来た。

「宮田様、大丈夫で御座いますか?」

「大丈夫じゃ。それより、あの者達の縄を解いてあげなさい」「はっ!」

 青野伝八は、茫然とその場に立ち尽くしている。斬り合いを見るのは、初めてのように思える。

「青野殿、とんだ目に、遭いましたなあ」源之進は、ゆっくりとした口調で、落ち着き払って言った。

「船まで案内せよと言われ、拒みましたらあのように縛られる始末・・・・・・」

「船までで御座るか? むう〜 どういうことで御座るかのお〜」源之進は、腕組みをして考え込んだ。

「積み荷を見せてくれと、言っておりましたから。なにか、彼らにとって重要な物でも、積んでいたのではと!」

「うむ〜 積み荷をと・・・・・」

「はい、見せるだけで良いと言っておりましたから、調べたい物でもあったのでは?」

<見るだけで良いとはまた、何と云うことだ> 源之進には、益々理解できなかった。

「して、どういう積み荷を、積んでおられるのかな? 何か変わった物でも?」

「いいえ、源之進様も御存知の品々で、別に変わった物など御座いませんが」伝八は、不思議そうに首を傾げて言った。

「ま、宜しかろう。そのうち真相が、明らかになりましょう・・・・・」

「その者達を、近くの広大寺で、手厚く葬ってやってくれ」斬り殺された者を見て、源之進は伴の二人に静かな声で言った。手を合わせた源之進は、目を瞑り、亡骸に一礼して祈った。

 先程から、野次馬達が <何事か> と集まって来ている。中坊の通りから、深浦を見下ろしているのが見える。

「それでは、青野殿。気をつけて帰られよ」「源之進様、どうも有難う御座いました」

 青野伝八と連れの三人は、弱々した声で言うと、深々と頭を下げた。伝八の手が、震えている。斬り合いの興奮が未だ冷めていない様子である。源之進が、石段を登り終えて中坊の通りに出るまで、青野伝八達は、ずっと見守っていた。

 源之進は、事の起こりを山内彦佐衛門に報告に行かなければならなかったが、斬り合いになって直ぐ、彦佐衛門の家に報せに行った者があった。

「彦佐衛門様! 彦佐衛門様! 大変で御座います! 深浦で、斬り合いで御座います」

斎藤義乃助と向かい合わせで、話し込んでいた彦佐衛門は、斬り合いだと聞いて、庭先に飛び出した。

「斬り合いじゃと!」 

「はい、源之進様達と島津の密偵達かと思われます」

「島津か! 相手は、何人じゃ?」

「二人に御座います」

「何、それだけか? ふむ〜 まず斬られまい。恐らく、相手は斬り殺されるであろう」

「大丈夫なのですか?」

「心配要らぬ。源さんは無念流の達人でな、この坊津が、島津や他の豪族達に狙われていると云うのを知って、近衛様が直々に使わしたひとりなのじゃ」庭先から、奥まった深浦の方を見ても、簡単に見えるものではなかったが、彦佐衛門は覗き込むようにした。

「人が、集まっているようじゃのう」

「そうで御座いますね。それ程、人は居なかったのですが、騒ぎを聞き付けたので御座いましょう」

 中坊に住む、廻船問屋の奥村伝衛門は、先程の慌てようも忘れたのか、ゆっくりと落ち着いた口調で応えた。船まで行く用事の途中に、騒ぎを見て彦佐衛門の所に知らせに駆け付けたのであった。少し早くに、深浦の船溜りに行っていれば、もしかして伝衛門が、騒ぎに巻き込まれていたかも知れなかった。

「是れもまた、人生かのう」伝衛門は、口走った。

「そなたが、もしかして斬られていたかも知れないと? そうであろう?」

 彦佐衛門は、伝衛門を見て大笑いをした。豪快な笑いであった。伝衛門の気持ちを見通していたのである。伝衛門は、苦笑いを見せている。

「さて、伝衛門。都から斎藤殿が、みえているが、少し話でもしてはいかぬか?」

「斎藤様が? 堺の港でお会いしてから、随分と月日も経ちました」

「さあ、こちらに、あがれ」彦佐衛門は、伝衛門を部屋に案内した。

「これは、これは、斎藤様。暫らくで御座いました。ご機嫌如何で御座いますか?」

「おお! 伝衛門か、暫らくであったのう」前に出て畳の上に両手をつき、深々と頭を下げる伝衛門に向かって言った。

頭をあげた伝衛門は、義乃助に微笑みを浮かべて聞いた。「斎藤様、いつ坊津へ?」

「昨日、着いたばかりでな。近衛様からの、達書を山内様の所へ持参した次第じゃ」

 <どういう命令書なのだろうか?> 伝衛門は、彦佐衛門の方に目をやった。

伝衛門の心中を察して彦佐衛門は、「拙者に、また坊津に留まれと言って来ておる。こんなに、良い所なのにのお! 誰も、進んで来ようとはしない」と、不機嫌な顔を見せる。

「彦佐衛門様は、皆の信頼も厚く、他の御仁には到底、勤まるものじゃ御座いません」伝衛門は、真面目な顔をして言った。

「近衛様も、そのように仰ってな、留まるようにとの達書なのじゃ」言い終わると、斉藤義乃助は、お茶を一口飲んだ。若いのに弁がたつ義乃助は、物静かになっていた。斬り合いのことが、頭を掠めて離れなかった。

「斎藤様、今夜はどこに、お泊りですか? 宜しかったら私の家に、是非お泊まり下さい」

「そうじゃのお! 厄介になると致すかな」

「分かりました。何のお持てなしも出来ませんが。ゆっくりなさって下さいまし」

 暫らくして、玄関の方で話し声が聞こえているのが、彦左衛門には判った。

「貴代! 彦佐衛門様は御出でか?」

「はい、いらっしゃいますが。今、お客様とお話していらっしゃいます」女中の貴代は、帰り血を浴びている源之進を見て、驚いた様子で応えた。

「奥様をお呼びします」と言って源之進を待たせ、その場を離れた。

 源之進は、ずっと動かず立っている。

「源さん! 島津の密偵と、やりあったらしいわね。怪我もなく、良かったわ。さっき、奥村伝衛門殿が知らせにみえられて、奥の部屋で、都からみえられた斉藤義乃助殿と話していらっしゃるところよ。さ、奥の部屋へどうぞあがって」

妻の譜由が源之進の前に現れ、血のついた服に驚いた様子で言った。

源之進は、いつになく無口である。斬り合った後の興奮が、まだ醒めていなかった。

 源之進は譜由に案内され、奥の部屋に「失礼致す」と言って、入って行った。

畳に正座すると、一礼した。

「宮田様、暫らくでした」義乃助も、源之進に深々と頭を下げた。

「源さん、どういう事なのじゃな」彦佐衛門は、源之進を気遣いながら聞いた。

「はっ! 島津の密偵は、貿易船に乗り込もうとしていたようで御座います」

「何、貿易船にと。ふむう〜。何用で?」不思議そうに聞いた。

「積み荷を、見せるように言っておったそうですが。恐らく積み荷が目的では、御座いますまい。変わった物は、積んでいないとのことですので・・・・・」

「それなら、何故? うむ・・・仔細あってのことであろうが・・・」彦佐衛門は、腕組みをして考え込んだ。

「幕府発行の通行朱印状を、狙っての事かと思われます。島津は、幕府に内密で、唐との貿易をしたいが為、かと」

「そうよのう、島津などの豪族がこの坊津を狙うは、貿易で得る莫大な唐物税があるが故のこと。幕府の財政を、支えているのは実はこの坊津あればこそ。それを島津は、充分知っているのであろう」

 坊津の存在は、知る人ぞ知る <幕府の金庫番> 幕府に反抗するものが知れば、坊津を利用しようと企てるであろう。その為、金庫番的存在は、極秘扱いにされていた。

「坊津を手に入れた後、島津は機をみて薩摩国を作る所存に御座います。島津に放ちおきました、密偵からの報告で御座います」

「薩摩国をと。うむ〜、幕府の力は絶大なるもの。たとえ今、島津が攻めて来ても彼らの手には、落ちないであろうがのお」

「そうで御座いましょう。たとえ、攻め込んで来ましてもこの源之進が! 仕留めて御覧に入れまする」

 彦佐衛門は、「そうだ、源さんがいれば、大丈夫じゃ」と、源之進と一緒になって笑った。義乃助と伝衛門は、呆気にとられている。源之進についた帰り血が、一層それを物語っているかのように、義乃助と伝衛門の二人には思えた。

「所で、義乃助殿、都の方は如何かな?」と、源之進。

 先月歌会が有り、その後、祝宴が開かれたことや、都の様子などを淡々と話して聞かせた。源之進は、黙って聞き入っている。坊津に、着任して随分と月日は流れていた。都での友の顔が、浮かんで来る。噂話を聞く度に、懐かしく思い出していた。

「今年も、坊津には交代の者は、来ないので御座ろう?」源之進は、知っていたかのように、覗き込むようにして聞いた。

「はい、実はその通りで、御座います」義乃助は、申し訳なさそうに答えた。

「幕府のお偉方は、この坊津をどう考えているのかのお! この坊津が無かったら、今頃幕府は沈没、攻め入られておりましょうぞ」

「まっ! ま! 源さん。落ち着いて」彦佐衛門は、源之進の荒げた言葉を止めた。

このような待遇は、源之進にはとても辛いことであろう。源之進の気持ちが痛い程解るが故に、寂しく思う彦佐衛門であった。

「源さん、いつだったか、島津が攻め込んで混乱している時、先の天皇は豪遊という形をとって、興禅寺に宿泊なさっていたではないか。朝廷も幕府も決してこの坊津を、軽くお考えになってなどおられまい」

「そうで御座いましたな。あの後、島津も手を引かざる負えなく、なったのですから」

「こうやって、特使を派遣する筈はないであろうが。文でも済む事じゃしのっ」「仰る通りで・・・」

「それでじゃ、源さん。毎年やっている、交代の行列は如何致そうかと思うのじゃが、何か、良い知恵はないものかのお?」

 彦佐衛門は、皆を見回して言った。

「はい、交代の行列は今じゃあ、お祭りで庶民の生活の一部になっております故、廃止となりますと、苦情もありましょうし・・・・何か良き案は、ないものかのお〜」源之進は、「うむ〜」と言って俯いた。

「彦佐衛門様、神社の御神幸と一緒に、行列しては如何でしょう?」伝衛門は、考え込んでいる彦佐衛門を見て静かな声で聞いてみた。

「御神幸と一緒にか?」

「はい、坊津は唐の湊と聞こえし有名なる港町です。神社にお参りする人は数知れず、人々の信仰する神社も、また多く有ります」

「して、妙案はあるのか?」

「はい、近くの八坂神社は女の神様で、他の神社は男の神様で御座います。そこで、八坂神社の女の御神幸を、他の神社に移します。一晩、留め置ましたる翌日に、元の八坂神社に戻って来ると云う訳で御座います」

「しかしじゃ、伝衛門。他の神社が、嫉妬を焼くではないのか?」

「そうで御座いますなあ。焼きますなあ」

「伝衛門、それなら、毎年交代すれば良いではないか? 一晩留め置く神社を」源之進は、言葉を添えた。

「成程、その行列は元々、役職の為に都から来られるお武家様と、役職を終えて都へ帰られるお武家様の、交代の行列で御座いましたな。それは良い考えですなあ」

 都から来られた役職につく為のお武家様達の行列を、夕方にお迎えし、次の昼過ぎに、役職を交代して、都に登られるお武家様達をお見送りするといった行事であった。理にかなっていると、伝衛門は頷いた。

「それでは、報祭ということに致そう」彦佐衛門は、腹を決めて言った。

「御神幸は、若者達に担がせるとして、賽銭箱や神旗などもいるなあ」話が、だんだん煮詰まっている。義乃助は、話の進み具合を黙って聞いている。

「女の神様が、一晩だけ泊りに行くとなりますと、娘達の行列も必要でしょう。十二歳と云えば、大人になる印の、ある頃。その娘達に、小さなお賽銭箱を頭の上に乗させ、行列に参加させてみては如何でしょうか?」伝衛門は、彦佐衛門を見た後、皆を見渡すようにして言った。

「伝衛門、それは良いのじゃが、大人の印があってはいけない。御神幸なるぞ!」

「そうで御座いましたな、彦佐衛門様。しかし、大人になった娘達が、神様へのご挨拶ということで宜しいのでは?」

「うん、成る程な。ご挨拶なっ。それなら差し支えないであろう」

「とりあえずは、そのように致すとして、笛太鼓は元のままで宜しいのでは?」

「そうじゃのお、良いであろう」

「それでは早速、他の廻船問屋や豪商達を集めまして、準備に取り掛かりましょう」伝衛門の心は、もう祭りにあった。

「源さん、源さんの方も、準備は頼んだぞ」

「はっ、佐市にも伝えます故、若者達の担ぎ手や笛太鼓など練習し、準備するかと思います」お茶を啜っている彦佐衛門を見ながら、ゆっくりとした口調で言った。斬り合いのことなど、もうすっかり忘れて、源之進もまた祭りの準備に心弾ませていた。

祭りは、都への交代の行列が行なわれていた、陰暦の九月十五日とすることになった。

 その頃、興禅寺では、住職と僧侶の円昌を前にして座る佐市と才次は、畏まっていた。

才次の勉学のことで、部屋に通されていた。

「そうであったか、才次も、のお! 良いことじゃ、遠慮せず今から始めなさい」

「そうで御座いますね。善は、急げと云います故。早速、向こうの部屋で待っていてもらいましょうか? 住職!」

「うん。そうしてもらえるかな?」

円昌は、才次の学ぶべき本を揃える為に、静かに部屋を出て行った。

「それじゃ、佐市、才次を部屋まで案内してはもらえぬか? 円昌は、直ぐに参るであろうからな」

「はい、分かりました。御住職、どうも有難う御座います」住職に深々と頭を下げた二人は、堅い表情で部屋から出た。

廊下に出た佐市は、庭先に目をやった。庭の片隅に、ほおずきが、一列に満開の花を咲かせている。 <薄桃色の爪を、美麗はしていたな> 恋人お紗江にと美麗からお土産に貰った、アルコール漬けしてある小瓶に入っている、ほおずきの花の色を思い出していた。

 暫らく縁側を歩くと、佐市達にとっての、学びの部屋が見えて来た。静か過ぎる部屋には、修業僧達が机の前で読み書きの最中である。黙って本を読んでいる覚念の机に、才次を案内した佐市は、「自分の隣に座るように」と、囁くような小さな声で言った。やがて、木の板を打く休息の音が聞こえた。覚念と話す暇もなく円昌が、佐市達の前に本を抱えて現れた。

「才次さん、これが今日から、そなたが学ぶ本じゃ。内容は、頗る簡単に書かれてある故、心配無用じゃ」

言い終わると、机の上に本を置いて、本の内容を説明しだした。佐市の時とは、少し違っている。<おやっ!>と、佐市は、心の中で呟いた。それは、自分の時とは違って、語学の本が多かったからである。唐語、百済話し言葉、ジャワ語、印度語、建築学、唐船法度、仏教学、倫理学と、僧侶の円昌は次々に説明していった。本の持ち出しと、筆を使うことや、メモを取ることが禁止されていることについても念を押した。

「何か質問は、ないかな? 才次さん・・・」静かな声で言った

「無かったら、今日から頑張るように」と、不安そうな才次に微笑みかけた円昌は、落ち着き払っている。

「はい、有難う御座います」深々と頭を下げて、お礼を言った才次に、頷いて見せる円昌である。「じゃ」と言って、さっさと部屋から出て行った。

部屋に入って来る風が、涼しく感じられる。蝉の声は、潮騒を飲み込んでいるかのように、佐市には聞こえる。

覚念は、直ぐに慣れるだろう事や、興禅寺での勉学方法などを才次に詳しく話して聞かせた。

夕焼け空に、とんぼが群れを作って飛んでいる。興禅寺を出た佐市と才次は、村上屋の方へと歩いた。明日は、梁船長達の船が、唐を目指して出帆する日である。送別の宴が、村上屋で開かれることになっている。いつ会えるとも分からない、友との別れは辛かった。

村上屋に着いた二人は、女中のお美代に応接室に通された。村上屋の女将と佐市の恋人お紗江は、すでに椅子に腰掛けて何やら話し込んでいる。佐市と才次の二人は、女将達に挨拶を交わした。向側に腰掛けると、お美代が出してくれたお茶を、ゆっくりと飲んだ。

「興禅寺の様子は、どう? 才次さん」女将は、才次の方に視線をやって、静かな調子で聞いた。

「はい、皆、勉学に勤しんでいます。なんとか、私も頑張れそうです」

「そう、それは良かったわ」

その時、お美代に案内されて、源之進とその伴の者達三人が、部屋に入って来た。

「いや、そのまま。そのまま」源之進は、立ち上がって挨拶をしようとしている皆を制した。

「直ぐに、宴席の方へ行くので、堅苦しい挨拶は抜きじゃ! ちと、佐市達に話があってな。勝手に、部屋に入って来た訳じゃが」

 佐市の方へ近づいて来た源之進は、畏まった様子を見せている。右手に持っている太刀を床に立てて言った。

「話と云うのは、他でもない、役職交代の行列のことなんじゃが」

「あの、行列が何か?」<改まるような話では、ないのに? 源之進様には、とても重要な事なのか?>源之進の話振りに、佐市は驚きを見せた。

「実は、あの行列を報祭と致す事になった。つまり、八坂神社の御神幸を、夕方に他の神社に一晩留め置き、次の日に戻って来るということにあいなった。それでじゃ、若い者に、御神幸を担いでもらいたい。あの役職交代の行列と同じように、笛太鼓もお願いしたい。日取りは、九月十五日の同じ日じゃ」

「分かりました。笛太鼓は、いつものように練習して準備致します。担ぎ手は、沢山おりますので御安心下さい」

「そうか、宜しく頼んだぞ」

「はい、承知致しました」佐市は、源之進に頭を下げて言った。

「源さん、うまいこと考えたわね。御神幸の行列と、すり替えるとは?」女将は、横目で源之進を見て、にっこり笑って言った。

「おい、おい、女将! すり替えてなんかいないぞ。今年も、役職交代の役人が来ないのじゃ。それで、彦佐衛門様も困り果ててな、行列はやらない訳はいかない。神社にお参りする者は多く、そこで、苦肉の策なのじゃ」女将に痛い所を突かれてか、冷汗を掻いて言った。

「そうだったの。こんな、良い所なのにね。そんなに、都の華やかさが、殿方には良いのかしらね? ここにいたら、出世できないとでも思っているのかしら?」女将は、がっかりした声で言った。源之進を見詰めて、答えを求めるような静かな声であった。

源之進は、女将の気持ちを察して、それを打ち消すように言った。「いや、そうではあるまい。政を行なう近くにいれば、安心するのであろう」

「殿方とは、そう云うものなの? いろんな人に会い、今まで知らなかった、いろんなことに出逢う、そんな生き方も良と思うけど」女将は、力を込めて源之進に向かって言った。源之進の伴の者達も、部屋の中に立ったまま静かに聞き入っている。

「そうじゃのお! 女将の言う通り、都だけが物事の中心ではない。ここ坊津にいれば、異国の人達を、身近に感じる事ができる。学ぶことも多い。進んで、こう云う所に来ても然るべきなのじゃが・・・」源之進は、言い終わると、深い溜め息をついた。

沈黙が、続いている。遠い水平線の彼方を、思い描いている源之進に、佐市は、静かな声で聞いた。

「源之進様、報祭の行列に、唐人町の友人達を参加させたいのですが、宜しゅう御座いましょうか?」

「唐人町の、友人達をと? それは、一向に構わぬが、友達の方が、嫌がるのではないのか? 神社にお参りする、慣習でもあれば幸い、参加するやも知れぬが」

「それは、大丈夫で御座います。明後日、私達は、お祭りに招待されておりますので、その時に、お願いしてみたいと思います」

「そうか、それじゃ、そのように頼むぞ」

「はい、分かりました」

 話が終わると、「それでは後免!」と言って、源之進は伴の者達を連れて、宴席の方へと応接室から出て行った。

 暫らくして、宴会場に案内された佐市達は、座る席を探した。唐船の乗組員達は、既に上座の梁船長を挟んで、両側に胡座をかいて座っている。その隣に、源之進の姿が見えた。廻船問屋寺田屋、豪商青野伝八等の草々たる姿も見える。佐市達は、遠く離れて下座の方に席をとった。それが、まだ若い彼らには、相応しいと思ってのことであった。

「宴席も、詰まったことだし。梁さん! そろそろ、始めましょうか?」

 女将は、梁に手筈通り進めるように、皆に分からぬように合図をした。梁船長は、その場に立ち上がって、大きな声で言った。

「きょうは、ワタシタチノために、おあつまりクダサイマシテありがとうゴザイマス。唐にカエッテモ、坊津の友人達ノコトハ、ワスレマセン。ワタシタチ、すえながく友でありたいとオモイマス。コノ友情は、ツギノせだいにヒキツイデいきたい」

言い終わると、拍手がおこった。梁は静かに畳に座り、胡座を組んだ。

今回の坊津停泊は、長かった。いろんな思い出が、頭を掠めて行く。<ここに、戻って来るのは、いつの事だろうか? いつか又坊津に戻って来たい>と、強く心に思った。

 源之進が立ち上がって、挨拶の後、豪快な声で乾杯の音頭をとった。「それでは、乾杯!」と言う声に、思い出を辿っていた梁は<はっ!>と、我に返った。「かんぱい」と、杯を前に、乾杯をする梁である。

 宴席は進み、出されている料理を食べている者、話し込んでいる者、思い出に耽りながら酒を飲んでいる者、様々である。女将は、三味線を持ち出して、何時ものように歌っている。

 梁船長は、物静かに、酒をゆっくり飲んでいる。佐市は、立ち上がり、梁船長の所へ挨拶に行った。近くに、座って酒を薦めた。

「有難う、佐市」ぐっと、一口で飲み干した梁は、杯を佐市に渡して、酒を注ぎ返した。

「梁さん、琉球には、立ち寄るのですか?」

「イヤ、直行路ヲイキマス。その方が、早くツキマス。少し難しいカモシレナイガ」

 坊津から真西へ唐を目指す航路で、船首を西の方向から、少し南へ向けて南下するように進むと、黒潮と貿易風に流されて、丁度、船は真西の方向へ進むことになる。それが直行路で、潮の流れの強さと風の向きが時として変わり、船長の感と経験が、ものをいう難しい航路であった。

「そうですか。無事に着かれることを、お祈りしております」と言って、佐市は、注がれた酒を飲み干した。頷いている梁を、不安そうな目で見ながら、杯をそっと置く。

「唐へツイタラツギハ、印度へイキマス」「印度へ?」聞き慣れない、名前に戸惑った。

「唐のオサラヲ持ってイキ、香辛料を、買いツケルノデス」

 香辛料とは、一体なんであろうか? 聞こうとして梁を見たが、それより早く梁の説明が続いた。物静かな声である。佐市は、何も知らない自分には、興禅寺で思い知っていたが、未だ知らない世界が、存在することに興味を覚えていた。

「植物のひとつで、色は赤くてスコシ辛く、料理の味をヒキタテル為に使います。たとえば、カリーという食物があり、カレラハ、コノヨウナ箸は使わずに、テデご飯をツカンデ食べるのです」

 目を丸くして、黙って聞いている佐市を横目で見ながら、梁は続けた。

「印度は、マタお釈迦さまのウマレタトコロでもあります」

佐市は、頷きながら黙って聞いている。興禅寺で学んでいる本の中に、書いてあることを思い出していた。

女将の歌が、三味線の歌にのって聞こえている。構わずに梁は、酒を一口飲んで、話を続けた。

「ヒトニタイスル思いやりを忘れてはイケナイ。ヒトヲ思いやる優しさは、ドンナ学問ヨリモ、ドンナ仕事ヨリモ、スバラシイものです。それは、世界人でアル、トイウ証しデモアルノデス」

「世界人、ですか?」

「そうです、坊津人でアリ、世界人でナケレバなりません」

 梁の言っている意味が、佐市には良く分かった。世界のあちこちで、戦いの火があがっていることを聞かされている。皆が、ひとつの世界人になれば、平和になるのではないだろうか? ここ坊津も豪族達に、隙あらばと狙われている。血を流すことの無意味さが、頭を過ぎって行った。

 女将の歌声が、聞こえている。あの歌は、梁船長を送る歌だと感じ、聞き入った。

 

   別れる人の、後ろ姿

     切なくて

    目を瞑れば、追い掛ける

        あなたの思い出よ

 

   さよならしても、燈す恋は

     ついてくる

    愛するゆえ、諦める

        叶わぬ幸せよ

 

   去りゆく人の、笑顔さえも

     悲しくて

    手を差し延べ、包んでも

        飛び散る喜びよ

 

三味線の音が、泣いているように佐市には思える、唐船などの貿易船が、出帆する前には、必ず女将が歌う<別れの人>の唄である。

女将の歌声が、止まった。静かに、女将の歌声に聞き入っていた皆は、また話し出し部屋は騒めいている。

村上屋には、遅くまで歌声や笑い声が、尽きることもなく響いていた。 

 村上屋の朝は、いつになく早かった。

梁船長達を送る準備で、台所では、お美代達は忙しく動き回っている。大広間に手料理を運び終えて、乗組員達に食事を済ませてもらい、お皿を洗い、天手古舞であった。

 梁船長の船が、出帆する時間が迫って来ていた。海岸通りには、梁船長達が唐へ帰ると云うことを聞いて、見送る人達でごった返している。幾つもの船が入り、出帆して行ったけれど、これほどの見送りは、かつてない程の賑わいである。盗賊一味を悉く退治してくれた英雄の出船は、恩情の別れでもあった。

梁船長は、親友達ひとりひとりに声を掛けた後、乗組員達と小舟に乗り込んだ。遠ざかる小舟に向かって拍手がおこった。

梁船長達は、自分の船に無事に乗船したようである。

「梁さん! 元気でな! 戻ってこいよ!」 陸での、騒ぎをよそに、梁船長達は、静かに帆を揚げ、銅鑼を鳴らして、船首を沖の方に向けた。船は、ゆっくりと動きだした。停泊している百済の船も見えている。

貿易船の隙間を縫って、船はだんだん小さくなる。船は、朝日を帆に一杯に受けて、青い海に輝きを見せていた。

「とうとう、行ってしまったわね・・・」お紗江は、がっかりした声で言った。言い終わると手を繋いでいたお美代の手を、強く握った。お美代にも、お紗江の気持ちは充分解っていた。二人の目には涙が、光って流れている。友との別れは、辛かった。

「いつか、又逢えるさ!」佐市は、二人を気遣って言った。再び逢えることを信じたかった。

次の日、唐人町を訪れた佐市を含め十名の若者達は、お祭りの為に、周福徳の家に滞在していた。坊の浦で行われる報祭の事を周に話した佐市は、周の了解を得ていた。若者達に聞いてみようということになっていた。李寛の家に案内されて、若者達を待っていた。きょうの、寛の家で飲むお茶は、お花の香りがする。とても香ばしく、味も良く、今まで飲んだことのないお茶であった。

「李さん、お花の香りがして、とても美味しいですが、何というお茶ですか?」佐市は、又お茶を一口啜り、お茶の香りと味を味わい、静かに尋ねた。

「それは、薔薇茶と言います。あそこに、咲いているでしょう?」寛は、庭先に咲いている薔薇を指差して言った。小さな赤い薔薇が、咲き誇っているのが見える。李家に代々伝わっている、遠く大陸より坊津に持ち込んだと伝えられている薔薇であった。

「あの薔薇は、月季花とも言い、四季を通じて一年中咲きます。婦人病に良く効くと云われている、漢方薬でもあるのです」

「綺麗な、薔薇の花ね」お紗江は、庭に咲く薔薇をじっと見詰めて言った。可憐な花だ思った。

「薔薇の花を摘んで、お茶と混ぜて香りを付けるのです。簡単に作れますよ」

「そうでしたか」と、佐市は、頷いた。

 所によって、食物や飲み物がこうも違うものかと云うことは、貿易船の船長などの話や身近に入港して来る唐船などの乗組員達の生活から知ってはいたが、毎日自分が飲んでいるお茶に、工夫を施し新しい味を作り出している姿に、皆は感動した。

 暫らくして、美麗が部屋に入って来た。

皆と挨拶を交わし、落ち着いた様子で寛に、「他の皆は、もう直ぐしたら来る」と、告げた。

「美麗さん、この間は、ほおずきを、どうも有難う。爪はこんなに綺麗に、染まるわ」お紗江は、桃色に染められた、自分の爪を美麗に見せて言った。

「本当に、綺麗ね」美麗は、優しい声で言った。

「美麗さん、これは私からの贈り物よ」言い終わると、お紗江は手に持っていた包みから、浴衣と下駄を取り出して美麗に渡した。浴衣には、赤い朝顔の花をあしらってあり、下駄は、赤い花緒であった。

「わあ! 素敵な浴衣ね。私もいつか、着てみたかったのよ」浴衣を手に、燥いでみせた。直ぐにでも、チャイナドレスと交換して着替えたい心境である。お紗江の気持ちが、美麗には嬉しかった。

「美麗、着替えたら? きっと似合うぜ。その服も素敵だけどさ、坊の浦の男どもが、わんさか、近寄って来るぞ」

お世辞の下手な佐市であったが、本当に美麗は似合うと思った。

「まあ! 佐市さんたら、お世辞の上手いこと。お紗江さんの方が、もっと素敵なんでしょう? ね、佐市さん」

美麗は、佐市を見て笑った。皆も、佐市を見て笑った。お紗江は、恥ずかしいのか顔を赤らめている。

「一本やられたな」才次は、佐市をからかった。佐市も、恥ずかしいのか俯いていたが、お美代に向かって言った。

「お美代ちゃん、才次も素敵だろう?」「美麗、李さんも素敵だろう。そうだろう」

「おいおい、佐市。勝手にくっ付けないでくれ。お美代ちゃんが可哀相だろうが」才次は、照れ乍ら言った。皆は、笑った。

心温まる、ひと時であった。

 他の若い連中も、寛の家に集まって来た。部屋の中に入り、挨拶を交わすと空いている椅子に掛けて、皆が集まるのを待っている。

皆が、全員集まったところで、寛がテーブルの横に立ち上がって、話し出した。

「皆、知っている通り、きょうは、佐市さん達がお祭りに来てくれた。お祭りを精一杯盛り上げてもらいたい」

寛は、お祭りの注意事項などを続けた。佐市達は、寛の話を黙ったまま、静かに聞き入っている。祭りの話が済んで、寛は佐市達から誘われている報祭のお祭りに、参加するかどうか皆に聞いた。皆の意見は、参加しても良いということだった。

「それで、佐市さん、お祭りにはどうすれば良いのですか?」

「御神幸の行列ですから、民族衣装を来て行列に参加するだけで良いのです」

「ただそれだけ?」

「はい、出来れば笛太鼓など、演奏してもらえば良いのですが、それは、こちらで準備します。ですから、簡単なことだと思います」

「そういうことなら、簡単ですね」

「ただそれだけのことですが、参加することは、意義深いことだと思いますよ」

「そうですね」と、寛は頷いた。

佐市は、唐人町の若者達が、参加してくれるというので嬉しかった。これで宮田源之進に対して面目が果たせると、ほっと肩を撫で下ろした。

「さあ! 話は、決まったことだし! 祭りだ! 今年も、元気よく行こう!」

 寛は、皆を見渡すようにして言った。

お祭りだ。皆は、外へ出た。

それぞれの位置に着き、蛇踊りが始まった。爆竹の音、騒めく歓声、楽器の音全てが踊っているかのように佐市達には思えた。

夜には、花火が揚がった。大きな音と共に打ち上げられた花火の中に、吸い込まれそうになる。赤や青の火花が、ぱっと広がり、消えて行く。暗い夜空に、星が光って見える。花火は、夜空一杯に包み込んでいた。

花火の後は、静かであった。御先祖のお墓に提灯を下げ、灯篭を海に流して、御先祖を供養し感謝した。

唐人町の、お祭りは忙しく、あっという間に終わった。それは、花火の如くであった。

 

 

       九

 

坊の浦に、深い夜が訪れようとしていた。陰暦八月十五日は、十五夜である。丸い大きな月が、連なる山から顔を覗かせようとしている。佐市と才次、お紗江達は、お美代の家の縁側に座り、月の昇るのを今かと待っていた。縁側には、採れたての野菜や里芋が山盛りに盛られ、すすきの穂が、南蛮から持ち帰った土瓶に活けられ供えられている。三人は、昇り行く月を眺めながら黙ったままであった。

お美代が、牡丹餅を運んで来た。餅米を炊いて丸い握り飯のように握り、その上に黒い餡こがたっぷり付けてある。見るからに、美味そうな牡丹餅であった。お美代は、縁側に腰を掛けているそれぞれの横に、牡丹餅が三個ずつ乗っているお皿を、お盆から取って置いた。

「ありがとう。美味しそうね。お美代ちゃんの手作りなの?」お紗江は、牡丹餅を見て言った。

「そうなのよ。朝早くから作っていたの」お美代は、微笑んだ。きょうの、この日の為に、早起きして作った自慢の牡丹餅であった。

山の頂上から、月が顔を覗かせている。月は、だんだん昇って行く。

「あの月には、人が住んでいるのかしらね?行ってみたいわね」お美代は、皆に言った。

「あの月には、兎さんが住んでいるらしいわよ。お餅をついているんだって。そう言われれば、見えるでしょう? ほら・・・ね」

 お紗江は、いつか幼い頃、聞いたことのある話をした。

「見えないことはないな・・・・・」呟き、才次は、牡丹餅を頬ばる。

「兎さんが住んでいるんだったら、誰かが住んでいるんじゃないの?」お美代は、月を見詰めながら牡丹餅を食べている才次の、横顔を見ながら言った。

「美味い! お美代ちゃん。美味しいよ」才次は、ぼんやりと月を眺めているお美代に向かって言った。

「本当美味しいわ、お美代ちゃん」お紗江と佐市も、手作りの牡丹餅を食べて、「美味い!」と誉める。

黒い餡こが、月の光に照らされている。

<牡丹餅を、作って良かった> お美代は、皆に美味しいと言ってもらえて、とても嬉しかった。

「美味しい? そう・・・・・」と言って、お美代も一口牡丹餅を食べて、箸をお皿に置くと、お紗江の話に耳を傾ける。

「月ではきっと、戦いも無く、人は平和に暮らしているんでしょうね? 鳥のように、飛んで行ってみたいわね?」

「そうね、私も住んでみたいわ。どうせ短い一生ですもの。皆と仲良く生きたいわ」お美代は、恋人と二人で過ごせる日が来ないかしらと、大きな月を見詰めた。

「皆、平和に暮らしたいのさ。興禅寺の住職が言っておられたけど、ところが人は、私利私欲に走ると。人の為、世の為だと考えるなら、争いなど起こらず、まして人を斬る事など出来ないと。島津が、この坊津を手に入れたいのも、自分の領土を拡げんが為と坊津に入る莫大な唐物税を我が物にせんが為」佐市は、力を込めた。皆、話に聞き入っている。佐市の言う通りだと、皆は思った。戦になれば、苦しい思いをするのは結局自分達、弱い者達だ。上に立つ者は、勝手な理屈を付けて、戦にかり出す。弱い者の味方だと言いながら、弱い者を苦しめている。とんでもない話だと、皆は憤慨した。領土が、広くなろうと、狭くなろうと、他の豪族が入り込もうと、出て行こうと、そんな事など知ったことではない。ただ、皆と仲良く平和な生活をしたいだけだ。「上に立つ者よ、解っているのか」と、言いたかった。

「そうか、金と権力を得んが為か! 実は、自分のことだけ、考えているんだね」愚かなことだと、才次は笑った。下手な理屈を捏ねているだけかと、皆も笑った。

「お紗江ちゃん、お茶がいるわね。持って来るからね」お美代は、立ち上がりながら言った。いつの間にか大きな丸い月は、空高く昇っている。

「ちょっと待って、・・・私も行くわ」お紗江は、お箸を止め、食べかけのお皿に置いた。

二人は、台所の方へ立ち上がり、暫らくして、お茶を運んで戻って来た。

 佐市と才次は、出されたお茶を飲んだ。満月を見ながら飲むお茶は、格別だ。

「牡丹餅も美味かったが、食べた後のお茶もまた格別美味いな。お美代ちゃん!」

「おいおい、才次。今夜はどうしたんだい。やけに、誉めまくるじゃないか? これもまた、お月様のせいかい?」佐市の言った言葉に、皆笑った。

お美代は恥ずかしくて、顔を赤らめたのだったが、月の光に遮られて誰にも気づかれなかった。それを知るのは、お美代だけだった。

丸く大きな月は、夜空にキラキラと照り輝いている。それは、幸せを運んで来るかのように、皆には思えた。十五夜の夜は、ゆっくりと過ぎていった。

報祭の祭りの日は、近かった。ドン、ドドン、ドドン、ドンドン! 祭囃子の笛太鼓の練習する音が、興禅寺にも響いている。庭には、菊の花がつぼみを付けている。竹箒で、庭を掃く修業僧は、先程の来客のことが気になっていた。

ゴーン、ゴーン、夕暮時を報せる興禅寺の鐘が、いつものように響き渡った。興禅寺を建立した際持ち込まれた、大人八人でようやく持ち上げられたという、龍と獅子が両側から包み込んでいる見事な模様で、地の底までも音を伝えるという鐘である。

「それで、塩川殿、遣唐使船は、無事に唐に着いたのですか?」

住職龍山和尚は、遣唐使達の身を案じて塩川新八郎に尋ねた。新八郎の家は、代々漢方医であった。彼も又漢方医で、医学を勉強する為に唐に渡り、貿易船に便乗して数日前に、三年振りに着いたばかりであった。

「唐に着く六日前に嵐に遭い、第一船と第三船は無傷で無事に着いたのですが、第二船は難破して全員行方知れず、第四船は、半数は海に投げ出され、半数は手傷を負い、船は壊れて無残な姿で御座った」

住職は腕を組み、目を瞑って新八郎の話に聞き入った。

「手傷を負った者達を、私が治療を致しましたが、完治するまで数か月を要する者もおります。しかしながら、向こうには優れた漢方医も沢山おられ、また薬も整っております故、先ずは安心で御座いましょう」

 住職は、乗り込んで行った者達の姿を、ひとりずつ思い描いていた。大きく溜め息をつき、<やはり、犠牲者が出たか!>「無念だ」と、心に叫んだ。犠牲者の出ることは、出帆する前から覚悟していたことではあったが、胸の痛い思いである。

ドン、ドドン、ドドン、ドンドン! 祭囃子が聞こえている。笛太鼓の音が、一層住職の心を締め付けるような、虚しくも淋しい音色に聞こえるのであった。

海の藻屑と、消えて行った者達は数知れず、人生とは、なんと儚きものか? しかしながら、生きることの難しさは、例えようがなかった。誰かが海に飲まれるだろうことを承知で、送り出さなければならない。送る者にとって、それは辛く淋しいものであった。お寺はいつの頃からか、勉学の場所となっている。わざわざ、遠い異国に勉学の場を求めなくても、この興禅寺で高度な知識を教えることが出来れば素晴らしいだろうにと、住職はいつも考えていた。その日が、いつかきっと来るだろうと。

「今年も、そろそろ、役職交代の時期で御座いますか?」

「今年から、報祭の行列になり申してな」住職は、事の成りを新八郎に話して聞かせた。新八郎は、頷きながら聞いている。

<こんなにも海の綺麗な坊津に、自ら進んで交替する役人が、ひとりもいないとは>

「政の中心は、都にあらず、庶民の心の中にあり!」異国の地を見聞して来た新八郎は、小さな声で口走った。

住職は、黙って頷いている。修業僧が、静かに部屋に入って来た。新八郎に頭を下げると手に持っていた袋を、住職に見せながら言った。

「御住職! 必要な薬草は、全部整いまして御座います」

「そうか、新八郎殿の欲していた薬草じゃ。確認してみて下され、新八郎殿」修業僧から手渡された袋を、新八郎に渡して言った。

「確かに御座います。一番欲しかったのは、牡丹の根で御座います。痛み止めに使うのですが、牡丹の花がある所は、興禅寺だけで御座いますので、なかなか手に入りません」新八郎は、話を続けた。

「唐より、箱の中に沢山の薬草を持ち込んだので御座いますが、途中嵐に遭い、潮に濡れて役に立たなくなった有様で・・・」

「そうで御座ったか。必要な薬草は、いつでも仰って下され。僧侶に揃えさせます故」

 新八郎は、「有難う存じます」と、頭を下げてお礼を言い、出されていたお茶を、ゆっくりと噛み締めるように飲んだ。祭囃子が聞こえている。

「笛太鼓の、練習も大変ですね、御住職」

「佐市達が、練習に励んでいるのでしょう。佐市と云えば、この興禅寺で学んでいるのですよ。友の才次と一緒にな」

「そうでしたか。それは、良い事ですね」

 その頃、住職の察する通り佐市と才次は、八坂神社にあり、笛太鼓を後輩達に伝授していた。厳しい練習であった。

「よーし! 良くなってきたぞ。祭りまで残り少ない。しっかりやれよ。きょうは、ここまで! 女子は、笛は持ち帰って練習しても構わぬが、近所の迷惑にならぬように」

 皆は、汗を拭き一息ついた。風が、肌を掠めて行く。汗を流した後は、とても爽やかだった。<生きている!>と、皆は実感する。満足感が、体の中から湧き出て来るようであった。ひとつの事に、皆で力を合わせる。それは、説明出来ぬくらいに有意義であった。佐市と才次もまた、満足であった。

ドン、ドドン、ドドン、ドンドン! 祭囃子が、坊の浦に響いている。きょうは、陰暦の九月十五日、『報祭』のお祭りであった。道端の両側には、報祭と書かれた長い旗が立てられ、祭りを盛り上げている。準備は全て済んでいた。

佐市達は、唐人宿村上屋に宿泊している唐人町の、李寛ら親友達を尋ねていた。

「李さん、それで、報祭の行列ですが、夕刻の潮の満ちて来るのを待って神事を始めて、御神幸を行ないます。行列の順序として、高張り提灯を先頭に、大鉾、ひもろぎ、神旗、神具、垂れ、十二冠女、賽銭箱、太鼓、笛、すり金、神官、御神輿、御供の順ですが、李さん達は、御供しているお侍さん達の後について、行列して下さい。その後は、廻船問屋、豪商達住民が続きます」

「行列するだけで、良いのですか?」「充分ですよ。李さん」

「道は混雑していると思いますので、赤面、黒面と獅子が、先導して道を開けるようにします」

佐市は、言い終わると、手作りの甘酒を一口飲んだ。甘酸っぱい味が、口の中一杯に広がって、何とも言えない味である。

「李さん達も、甘酒頂いたら?」お紗江は、お美代が運んで来てくれた甘酒を、唐人町の親友達に薦めた。

「そうそう、美味いよ李さん。何せ、女将の手作りだもんな。この甘酒も又、李さん達の先先代が坊津に持ち込んで伝えてくれた物。他にも数知れず、食物から生活道具や薬草に至まで、有り難い事です」佐市は、言い終わると、もう一口、甘酒を飲んだ。皆も、甘酒を啜った。本当に、女将の手作りは、美味いと皆は感心した。

 神事を行なう時間が、近づいていた。佐市は、唐人町の親友達を鶴ケ崎の八坂神社まで案内するように、才次に頼んだ。

 八坂神社に着いた才次は、神事に参加させる為に、親友達と神殿に向かって並んだ。初めての神事である。酒を振る舞い、滞りなく行なわれ、報祭世話役の人達は、ほっと胸を撫で下ろしている様子である。が、まだまだこれからが本番である。佐市は八坂神社の広場に、順序よく整列させて、笛太鼓に合図を出した。

 ドン、ドドン、ドドン、ドンドンドン!

ピー、ヒョロ、ヒョロロ、ピー、ヒョロロ! 行列は、笛太鼓の音に合わせてゆっくりと歩き出す。沿道には、人が溢れて道をふさいでいる。赤面黒面は、先頭に立ち木刀を振りかぶって、人々を道の両脇に追い払った。その真ん中を、獅子がゆっくりと歩いて行列を先導して行く。行列は、中坊に向かって歩き出していた。

十二冠女やお賽銭箱に、白い紙に包んだ小銭を、沿道から投げ込んでいる姿が見える。彦佐衛門や源之進もしずしずと歩いて行く。唐人町の親友達の民族衣装が、やけに目立っている。行列は、無事に番所にある恵比須神社に着いた。神事を行ない御神幸は神社の神殿に供えられた。皆は神殿に一礼して、解散となった。

 次の日の昼過ぎ、潮の満ちるのを待って、恵比須神社に一晩留め置かれた八坂神社の御神幸は、昨夜のように神事を行ない、無事に八坂神社に戻って来た。

 事故もなく無事に、報祭を終えた報祭世話役や、彦佐衛門、源之進達、佐市達は、村上屋で祝宴をする事となった。

長い机の上には、既に手料理が並んでいる。準備は全て、整っていた。山内彦佐衛門はじめ皆は、席に着いていた。

「彦佐衛門様! 報祭の祭りは、大成功でしたね! いささか、心配で御座いましたが」少し離れて座っている奥村伝衛門は、騒めきを制すかのように、大きな声で言った。彦佐衛門は、頷いている。女将が、宮田源之進に耳打ちした。源之進は、杯を持ち立ち上がた。

「皆さん! きょうは、初めての報祭を、無事に済ますことが出来申した。皆の労をねぎらって、乾杯したいと存じます。さ、皆も杯に酒を注いで下され。宜しいか、それでは、末長く報祭が続くよう願って、乾杯!」源之進の音頭に合わせて皆は、杯を前に乾杯した。

鈴虫の声が、聞こえている。佐市達には、汗を掻いた後の部屋に入る風が涼しく感じられる。

 彦佐衛門が、佐市達の所にやって来て、酒をひとりずつ注いで行く。

「寛! きょうは遠い所を、御苦労だった。そなた達が、行列に参加してくれたお陰で、行列が一層華やぎ引き立った。一言、お礼を申したい!」彦佐衛門は、寛や仲間達を見回して深々と頭を下げた。侍が、若者達に頭を下げることなど考えられないことであったが、彦佐衛門の感謝の現れである。

「いや、お礼を言わなければならないのは、私達です。初めての報祭に呼んでもらえて、参加出来たことは嬉しく思います。これからも、喜んで参加して行きたいと思います」寛は皆を代表して、お礼を言った。

「知っての通り、この坊津は、豪族達に狙われている。幕府の勢力はまだまだ強いが、いつ戦火に巻き込まれることになるやも知れぬ。その時は、そなた達が一緒になって築いてきた祭りなど、文化の全て消失するであろう。しかしだ、いつかは、復活させることが出来る」

彦佐衛門は、坊津が戦火に巻き込まれることは、現実のものと捉えている。彦佐衛門の話には、熱気が感じられた。

「寛! 命は粗末に致すでないぞ! 生きて、必ず復活させるのじゃ! 良き所だけを受け取り、もっと新しい物に創り変えて行くのじゃ」

代々、ここまで築いて受け継いで来たものを、島津などの豪族達に横取りされるのは、彦佐衛門には耐え難い事であった。関白近衛氏に対しても、申し訳ないでは済まされないことであった。女将の、三味線の音と歌を気にすることもなく、淡々とした表情で彦佐衛門は、若者達を見回して、話を続けた。

「幕府の勢力が弱くなった頃、戦火の中に巻き込まれるであろう。幕府の滅びるのを待って島津などの豪族達は、この坊津を乗っ取りにかかるであろう。朝廷や近衛様も、それを案じておられるのじゃ。島津は坊津を手に入れた後、機をみて薩摩国を作る所存との密偵からの報告じゃった。安心は、できぬぞ」

『幕府の勢力の弱まる頃、滅びる時』とは、一体いつ頃になるであろうかと、佐市達は考えていた。その時、坊津は火の海と化すことになる。彦佐衛門の言ったことは、それを暗示しているようにも思えた。皆、ただ成らぬ不安を覚えた。

「近衛様の荘園であり、幕府の管理下にあるこの坊津じゃ。容易く、島津などの豪族達に渡しはせぬ! 安心致せ」

言い終わると、彦佐衛門は豪快に笑った。

<容易くは、渡さないと云うことは、坊津は必ず戦火に巻き込まれるのか>と、皆は困った顔をした。<血を流さないのであれば、容易く渡しても構わない>と、言いたかったのである。そんな、皆の気持ちなど、武士道を重んじる彦佐衛門には察することは出来なかった。それが、武士たる役目であると思っている。彦佐衛門の言葉を熱心に聞いている佐市や寛達に、<何かやらせてみたい>と、思いはじめていた。

<人の為に役立つ何かを・・・> <何かないものか・・・むう〜>と、彦佐衛門は心の中で叫んだ。

女将の歌が、三味線に乗り聞こえている。村上屋での宴会は賑やかに、楽しく過ぎて行った。夜の更けるのも忘れて。

 

 

 

 天平勝宝五年十二月二十日(753年)

興禅寺の縁側に出ると、白い庭が目に入って来た。そこには白い雪が、覆い被さるように降っている。佐市は、冷たい手を擦りながら僧侶円昌の所に、読み終えたばかりの本を持って行った。「失礼します!」と言って、円昌の部屋に入った佐市は、その本をどれだけ理解しているか、テストを受けた。

「北を探す方法は? 東西を探し、東に船首を向け航海する方法は?」

「何をもって、正午とするか?」

「雲が、どちらの方向に流れたら、雨とするか? 晴れ間の時に時化るのは、何故か?」円昌の質問が、容赦なく浴びせられる。答えに詰まりながら、なんとかテストを終えた。

部屋には、隙間風が入って来る。しかし、佐市の体は、暑さを感じていた。

「宜しい! 佐市さん。良くそこまで、理解しましたねえ! 一度で合格したのは、そちが最初であった。天文学は、合格じゃ。まだまだ、勉学に精進致せよ」

「はい、有難う御座います」佐市は、お礼を言うと、修業僧達が集まって学んでいる部屋に戻った。

隣の席で本を読んでいた才次が、小さな声でテストの様子を聞いた。佐市は、「合格だ」と、小声で言った。その横で聞いていた覚念が、「良かった、良かった」と、小さな声で頷く。 

佐市は、既に三冊をマスターしたことになる。修業僧達よりも、早いペースであった。

何やら騒がしい声が、聞こえている。住職の部屋の方へ、その騒々しさが移動しているのが判った。皆は、<何だろう>と、静かに住職の部屋の方へ、耳を傾けた。

 住職龍山和尚は、その来客を、部屋で目を瞑り待っていた。修業僧に案内されて入って来るなり、来客は慌てた様子で言った。

「御住職! 大変で御座います!」

「どうなされたのかな? 宮内殿」落ち着いた静かな声で言った。

「大変で御座います。船が、漂着しまして」「宮内殿。落ち着いて話しては下さらんか? 先ずは、お茶を飲んで下され」

修業僧が、部屋に持って来てくれたお茶を薦めた。秋目浦で廻船問屋を営んでいる宮内弥助は、出されたお茶を一口飲んだ。

「だいぶ、落ち着いたようですな。それで、如何致したのですか?」

「はい、船が秋目浦に無残な姿で、漂着しまして。その船に乗っているお方は、直ぐに興禅寺に報せてくれるようにとの事でした」

「そのお方とは? 誰なのですかな?」

「晋照と名乗るお方で、僧侶の姿をしていました。全員、正光寺に案内して参りました」

「僧侶は、ひとりだけだったのですか?」

「いえ、他に数名おりました。目を患っていらっしゃるお方が、名のある高僧のように思えましたが。とりあえず、風呂の用意をするように言ってきましたので、今頃、食事も終わり、船に乗船なさっている頃かと思いますが」

「むう〜 晋照殿と・・・」住職は、誰だったか自分の記憶を辿ってみたが、なかなか思い出せずにいた。

「それで、いつ興禅寺に来られると言っておられましたかな?」

「はい、直ぐにこちらへ向かわれる手筈になっております。私の、船をこちらに回すように言い付けて参りましたから、一時もすれば坊の浦に着くのではないかと思いますが」

「そうで御座ったか。いやいや、宮内殿。遠い所を、御苦労でしたな。今夜は、ここにお泊まり下さい。準備させます故」慌てて興禅寺に、駆け付けてくれた宮内弥助を労って言った。

「いや、折角の御親切、有り難いのですが、これから忙しくなられるでしょう。村上屋の女将の顔も見たいことですし、伴の者も待っておりますので、これで失礼致します」

「そうで御座るな、村上屋の女将の顔を見る方が、ずっと宜しかろう」笑って弥助の顔を見た。

「それでは、晋照殿とやら達を、迎える準備を致して、直ぐに桟橋まで迎えにやることに致しましょう」言い終わると、住職は、修業僧に円昌を呼びにやった。事の訳を説明して、迎える準備に取り掛からせるように伝えた。

「長く、お引止めも出来ますまい」修行僧に、弥助と伴の者を寺の門まで見送らせる住職龍山和尚であった。

 僧侶の円昌に迎えに出るように頼まれた修業僧達や佐市と才次は、坊の浦の船溜りに向かった。雪が、小船にうっすらと積もっている。見渡す限り銀世界であった。

「佐市さん、まだのようですね」覚念は、沖に目をやった。降り止んでいた雪が、降って来る。動くこともなく、ただじっと待つのは、辛い。手足が、凍えそうであった。皆は、暫らく沖を眺めていた。

沖に、船が見えている。佐市は、叫んだ。「船だ! 恐らく、あれだよ覚念さん!」

皆は、目を懲らして、沖の方を見た。確かに言われたように、船である。だんだん近づいて来る。廻船問屋、宮内家の旗がなびいている。間違いなく、晋照達が乗っている船であろう。入港すると、船は錨を打った。迎えの通船であろう小船が、船に近づいて行く。僧侶達の姿が、上甲板に見えている。

僧侶達の姿が小船に乗り移って行く姿が見える。小船は、ゆっくりと桟橋に近づいて来る。

佐市や修業僧達は、桟橋に整列して、晋照はじめ僧侶達を待った。

小船は、桟橋に接岸した。僧侶達がひとり、又ひとりと小船から桟橋に降りて来る。その中に、目の不自由な僧侶の姿があった。二人の僧侶に、抱えられている。

佐市達には、随分と年寄に見えた。旅の疲れから、そう感じたのであろう。いつの間にか、雪はすっかり止んでいる。

「興禅寺より、お迎えに参りました」覚念は、頭を下げた。

「有難う。それでは、案内して下され!」晋照は、覚念を見て大きな声で言った。旅の疲れなど、感じられない声である。

 覚念は、先頭を歩いた。晋照達僧侶は、一列に整列して歩き出した。その後を、佐市と才次、修業僧達が、同じように一列に整列して、興禅寺を目指して歩き出した。積もった雪を踏んで、一歩ずつ、ゆっくりと歩いて行く。雪の軋む音が、時々聞こえていた。

 ようやく、菖蒲坂を登り終えると、見えて来たのは雪景色の興禅寺であった。暫らく歩き、興禅寺の正門の前に差し掛った時、晋照は静かな声で言った。

「懐かしいのう。興禅寺を出たのは、つい昨日のようじゃ!」この門を潜って、遣唐使船に乗ったのは、二十歳になろうかとしている頃であった。実に、二十年振りに戻って来たのであった。

 中に案内された晋照達は、住職の部屋に通された。胡坐をかき、住職の来るのを待った。出されたお茶を飲む暇もなく、住職は直ぐに現れた。

「そちらが、晋照殿かな?」住職は、畳に正座すると静かな声で聞いた。

「龍山和尚! お懐かしい。御住職は、変わり無く、お元気ですか?」晋照は、正座し直して言った。皆、正座している。お寺の中は、静まりかえっている。

「先の、御住職は亡くなられて、今は私が遺志を継いで、住職を致しているのです」

「そうで御座いましたか」

 住職は、ようやく晋照のことを思い出していた。興禅寺に来た当時とすると、やつれている。面影を探すのは、容易なことではなかった。入唐後の苦労や生活が、その姿でよく解った。

 晋照は、この興禅寺に無事に戻ってこられた安堵感があった。話を続けた。

「聖武天皇の命を受けて、天平五年、坊津より栄叡殿と遣唐使船に乗り込み、無事に唐に着いたのは良かったのですが、なかなか、天皇のお気に入られるような、高僧には巡り逢えず。唐を放浪致しておりました」

「ここにおわすのが、その、晋照殿が探してお招き致したお方ですね?」

「はい、鑑真和尚殿です」鑑真和尚は、住職に頭を下げ、手を合わせた。晋照は、話を続けた。

「この、鑑真和尚殿に遇ったのは、九年もたった冬の十月、楊州の繁華な所で御座いました。弟子の僧侶達を引き連れていらっしゃる姿を拝見致して、とうとう理想の大徳を捜し出したと、私達は喜びました。鑑真和尚殿の話を聞き、益々それを確信致しました」

 住職は、黙って聞き入っている。円昌が部屋に入って来た。住職は皆に、円昌を紹介して、晋照、鑑真和尚他僧侶達を紹介した。晋照は、又話し出した。

「鑑真和尚殿に、事のなりを話すと、喜んで聞き入れて下さいました。ところが、高僧で人望の厚きお方故、慰留や渡航禁止などの障害に遭いました。密航までして出帆しましても、難破することが重なり、言語に絶する苦難の道で御座いました。六十三歳の時には、あまりの御苦労の為に、和尚殿は目を患い、失明するに至りました。それでも、この鑑真和尚殿は、我々の招きに応じて下さいました。途中、栄叡殿も床につき、夢半ばにして亡くなられ、不幸続きで御座いました。六度目の出帆で、とうとうこの坊津に辿り着いたので御座います」

「そうで御座いましたか。それで、他の遣唐使船は、如何致したのですか?」

そこまでして興禅寺に立ち寄ってくれた鑑真和尚に、痛く感動する住職である。静かな声で晋照に尋ねた。

晋照は、お茶を一口啜りまた話し出した。

「はい、遣唐大使藤原清河殿や安倍仲麻呂殿を乗せた第一船は、琉球王国に近づいた時嵐に遭い難破し行方知れず。漂着致していれば、宜しいのですが。更に屋久島で十六日風待ちして、出帆して直ぐに嵐に遭い、遣唐副大使吉備真備殿を乗せた第三船は、四方も分からぬ風波の為に行方知れず」

「むう〜」と言って、住職は腕を組んだ。

「もう直ぐ坊津という時、判官布勢人主らを乗せた第四船は、舵が効かなくなり頴娃郡石垣浦に漂着致し、無事の模様でしたので、我々はそのまま航海致しました」

僧侶の円昌も又、住職と同じように溜め息をついて晋照の話に、聞き入っている。

坊津を目の前にして、難破するとは、<不運>としか、言いようがなかった。苦い顔をしている住職と円昌を見て、晋照は続けた。

「遂に我々第二船は、辛うじて秋目浦に、辿り着いた訳で御座います」

「大変な航海でしたなあ。無事にお着きになられて、宜しゅう御座った。皆さん、さぞお疲れで御座いましょう。今宵は、御ゆっくりなさって下さい。準備は整っております故」住職は、皆の命を賭けた航海に、深々と頭を下げて心を込めた。

「はい、御住職、有難う御座います。遣唐副大使の大伴古麻呂殿は、秋目の唐通事の家に滞在致し、明日興禅寺に、挨拶に参るからとの事で御座いました」

坊津の主要な箇所、地区に唐通事を置いて交流をはかっている。異国の言葉を操る通訳である。武士や廻船問屋、唐船の船長達にも広く利用されていたのである。

晋照は、言い終わると溜め息をついた。長い旅であった。大徳、鑑真和尚に遇って十一年の歳月が流れていた。幾多の困難に遭いながら、今こうして興禅寺に戻って来た。言い知れぬ思いであった。晋照の目からは、涙が流れていた。

住職は、晋照の気持ちを察していた。痛い程よく解った。静かに、晋照を労わるような声で言った。

「遠慮などなさらず、旅の疲れは、充分に取り、御ゆっくりして下されや。晋照殿!」

鑑真和尚の目にも、涙が光っている。

<こんな高得な僧侶が来てくれれば、命を賭けてまで唐に学びに行く者などいなくなる> 将来ある、何人の若き者達が、海に消えたことだろうか? 人の為世の為とは云え、鑑真和尚も又、命を賭けて波涛を越えた。その姿に住職は、深く心を打たれていた。十一年もの年月を費やし、六度目にして果たした上陸の第一歩は、どんな気持ちであろうか? 晋照の言葉を、思い出していた。

 興禅寺の朝の訪れは、早かった。降り積もっていた雪も、すっかり解けて無くなり、暖かい日差しが差し込めていた。本堂では、いつものようにお経が唱えられたが。折角、鑑真和尚がいらっしゃったのだからと、鑑真和尚に有り難いお経をお願いし、皆もそれに参加した。その後は、修業僧達は朝食の準備や、掃除などに忙しかった。

 興禅寺には、十日が過ぎていた。僧侶の円昌は、覚念を部屋に呼び、鑑真和上を三日後に、都まで送り届けるように言った。覚念他三名の修業僧が、都まで案内することになった。

 その日がやって来た。

覚念の、旅立ちの時間が迫っていた。佐市と才次を前にして、覚念は落ち着かない様子であった。そんな覚念に、佐市は言った。

「覚念さん、都はあなたが生まれ育った、故郷では御座いませんか? 何をそんなに、不安がる必要が御座いますか?」

「私には、仏がついていますので、不安な事はないのです。ただ、ここで知り合えた友と別れるのがとても辛いのです」

覚念は、修業僧達を見回して言った。寝起きを共にし、同じ釜の飯を食べ、学んだ親友達と過ごした日々を思い出していた。

「覚念さん、また逢えるじゃないですか?」

「そうですね。佐市さんの仰る通りですね」興禅寺の、鐘が鳴り響いている。正門の前には、僧侶や修業僧達が両側に整列して、鑑真和尚達を待った。佐市と才次も、正門の前に急いだ。覚念達を先頭に、鑑真和尚の行列が近づいて来る。晋照や鑑真和尚達は、住職龍山和尚の前で立ち止まって、お礼を述べた。

「もう少しゆっくりなされば宜しかろうに、何故、急がれる」まだ興禅寺に留まり、充分に旅の疲れを取って欲しかった。

「聖武法皇や光明皇太后、それに孝謙天皇が待ち侘びていらっしゃる事でしょう。私達は先を、急がねばならぬのです。仏教興隆の影に隠れ、無学無知なる者が説法をする混乱した状態は、早く解決しなければなりません。その為には、正しい授戒の実行と戒律知識を広める必要があるのです。それは、急務なのです。大徳鑑真和尚殿を得た今、一刻の猶予も許されません」晋照は、力を込めて言った。住職は、よく解ったと頷いた。

朝廷では、度々取締を強化していたが、なかなか手が付けられないという事情があった。

晋照は、深々と頭を下げた。鑑真和尚も手を合わせると、住職に深々と頭を下げた。整列している、僧侶や修業僧達にも同じように頭を下げた。

覚念は住職に近づくと、「途中、太宰府に立ち寄ります。奈良の都に入り、東大寺へ向かいます。御住職には、いつまでもお体を、お愛い致して下さい。それでは、行って参ります」笑顔で言った後、深々と頭を下げた。「そなたも、元気でな。身体は、大切に致せよ」

「道中、くれぐれもお気をつけなされよ」と、住職は、小さく頷いた。

正門を出た覚念、晋照他鑑真和尚達は、立ち止まり興禅寺を振り返った。興禅寺の住職達に向かって深々と頭を下げた。住職達も、深々と頭を下げた。

佐市と才次も、整列している僧侶や修業僧達の横に並んでいる。覚念はじめ鑑真和上の行列を見送るのは、二人には寂しさを感じる。<出来る事なら、興禅寺に留まって欲しい>

 笠を被った、僧侶達の二列に並んだ一団は、静かに菖蒲坂を降って行った。晴れ間の広がる、爽やかな日であった。

佐市と才次の脳裏には、両側から二人の僧侶に抱えられて行列の先頭にあった鑑真和尚の姿が、いつまでも焼きついて離れなかった。

 

 

       十一

 

 三年の月日が流れていた。興禅寺の庭には桜の花が、満開であった。山内彦佐衛門は、興禅寺の住職龍山和尚を尋ねていた。

「それで、御住職! 御用船を作ることになりましてな」

「御用船をとな。何故で御座いますか?」

「佐市達を、その御用船で異国を見聞させたいと思いまして、坊津の廻船問屋他豪商達に相談しましたら、なんと、是非とも資金協力致したいとの事でしたのじゃ。そこで早速、建造致すように、船大工等に話をつけましたるところ、三日前に出来上がりましてな。明後日には、秋目浦より坊の浦に入港して参ることになっておりますのじゃ」

「そうで御座いましたか。幕府は承知致しているのですか?」

「それは、抜かり御座らん。朝廷や近衛様それに幕府も、えらくこの話には乗り気でしてな。幕府の御用船なのですが、実は、近衛家の御用船に致せとの事で、近衛家の紋章を、掲げよとの事で御座った。あちら立てれば、こちら立たずでしてな、少々頭の痛いことで・・・内密に行動する事に相成ったのじゃ」

「それは、それは、お察し致します。遣唐使船とは違いますし、見聞といいますと?」

「それが、見聞とは名ばかりで、実は彼らには、異国の動静を探って、報せて欲しいので御座る。これから先、どこの国と貿易を致せば良いか、廻船問屋や豪商達にとっても参考になります故。もう一つは、異国の珍しい物などを人も含めて、運んで来て欲しいので御座る。多くの者達にそれを見せて欲しいのですよ、御住職。書物を読むよりも、肌で感じる方が解り易いかと、存じましてな」

「それは、良い考えだと思いますが、偵察船とは恐れ入りました。それに、異国には特異な才能を持ったお方が、大勢いらっしゃいますし、そのような方々をお迎えできれば、願ってもないことで御座いますな。ただ、おいそれと招きに応じますかな? 彦佐衛門殿」

「はい、そこのところは、佐市達に任せれば大丈夫だと思いますが。昨年、噂を聞きつけて、ある御仁を招待いたしたので御座るが・・・いくら招きましても貿易船にも乗ろうとしないようでして・・・・・いささか、頭の痛とう御座いまする。波涛を越えてまで、異国に行って何とすると云ったところでしょうか? 命が、大事です故・・・難題なことでして・・・」

「それに、佐市達はうんと言いますかな?」

「それは、心配御座らん。その御用船は、貿易船を守る為の船でも御座います。うんと言わない筈は、御座らん」

 彦佐衛門は、佐市達の気持ちを知っているかのように言った。住職には、果たして上手く行くであろうかとの心配があった。

 佐市は、僧侶円昌に渡された本の全てを理解し、マスターしていた。才次も同じように全て、テストに合格していた。

佐市達は、すでに結婚していた。勿論、佐市はお紗江と、才次はお美代、寛は美麗とであった。

次の日、彦佐衛門は村上屋で、佐市達と会うことになっていた。佐市達は、早めに村上屋を訪れて、応接室に通され待っていた。

「何だろうな? 相談事とは?」才次に尋ねられても答えようのない、「うむ〜・・・・・」と、唸るだけの佐市である。才次と寛は、首を傾げ同じように腕を組んだ。「まっ! 待つしかないな」言い終わると、佐市はテーブルの上に左手を乗せて、顎をその手の平に乗せた。考えても、彦佐衛門の話を聞かないことには、全然話にならない、と言いたげである。 

 そんな三人の前に、女将が現れた。彦佐衛門からおおよその事は、聞いて知っていた。彼らにとって、良い話だと考えていた。ただ、危険な仕事だけに、身を案じていた。それだけに、その仕事は、彼らにしか出来ないだろうと思った。

「掛けても良いかしら?」

聞かれた佐市は、「どうぞ!」と、右手の手の平を上に、自分の近くにある右側の腰掛けの方向を指すようにして、椅子を勧めた。同時に、他の二人も、「遠慮なく、座って」と、軽く頷いた。

「どうしているかしらね?」沈黙の中に、ぽつりと女将は言った。

「えっ!」と、佐市は、小さく呟いた。三人は同時に振り向いて、女将の顔を不思議そうに見た。

女将は三人の顔を、それぞれ撫でるように見ると、微笑んだ。

女将は、静かな声で話しだした。「梁船長は、どうしているかしらね?」

突然の梁船長の話題に、「どうしていますかね? 元気に、航海を続けているらしいのですが・・・・・」佐市は、女将の質問に素っ気なく応えた。唐船の船長達から、梁船長の噂を耳にしていた。

「いろんな国の人と、仲良しになれるから良いわね梁船長は。井の中の蛙、大海を知らずじゃ、つまらないわね」

沈黙している三人の異様な感じとは裏腹に、女将の声は明るく部屋に響く。テーブルの上の、白い花瓶に活けられた色とりどりの花々も、微笑んでいるかのようである。

「女将さんだって、いろんな人と、仲良しになっているじゃありませんか?」梁船長に会えないで、淋しい思いをしているのだと、佐市は誤解していた。

「そうね! 確かにお友達は多いわよ。ここには、いろんなお花が活けてあるけど、座っている席に因って、お花の向きも色も少し変わってくるしね。答えだって、ひとつだけじゃなくて三つも考えられる時もあるし。そういう視野を、広く持てるようになることは、必要だと思うのよ。ここ坊津に住んでいれば、それは充分出来ることなんだけど・・・・・」

 佐市達には、女将が何を言いたいのか良く解らなかった。

「ただ、ここで培われたそういった感覚を、人の為に生かすことが、必要だと思うのよ」

三人は、<成程>と、頷いた。

「これから先、坊津はどうなるか分からないわ。戦火に、巻き込まれるかも知れない。そんな時、いち早くその戦火から、逃れられるような情報と、防止できる得策があれば願ってもないことじゃない? 思わない?」

「それで、俺達にどうしろと?」佐市は、女将の方へ振り向いて言った。他の二人も、女将の顔をじっと見詰めている。

女将は、また静かな声で続けた。

「どうしろ、とは言わないわ。ただ、坊津には、そういう人達が必要じゃないかしら?」「むう〜」と、佐市は、頷いた。他の二人も女将の言葉に、考え込んでしまった。長い沈黙が続いている。それは、明日を考える沈黙であった。

 暫らくして、新米の女中が、彦佐衛門達を案内して、部屋に入って来た。

「さ、こちらへどうぞ、彦佐衛門様」女中は、佐市達が腰掛けているテーブルに手を招いて、物静かな口調で言った。

「やあ! 皆さん、お集まりかな?」彦佐衛門は、女将と目を合わせ、待っていた三人の顔をゆっくりと見回した。

女将と佐市、才次、寛は、椅子から立ち上がり、彦佐衛門達に挨拶を交わした。

女将は、新米の女中が、彦佐衛門達に深々と頭を下げて部屋から出て行くのを目で追った後、「さっ、座りましょう」と、皆に座るように言った。

言い終わると女将は、さっさと部屋から出て行った。

山内彦佐衛門、宮田源之進、鮫島福次郎が、佐市達の向側に腰を掛けて座っている。それぞれの右側に立て掛けられている彼らの太刀が、三人はやけに気になっていた。

彦佐衛門が、口火を切った。

「きょう、わざわざ集まってもらったのは、ほかでもない、相談したいことがあってな」彦佐衛門は、三人を一人ずつゆっくりと撫でるように眺めながら、静かな口調で話しだした。

「明日、栄福丸が坊の浦に、回航して参る手筈になっておってな。極秘に秋目浦で作らせておった船で、そなた達にその船に乗って、色々と働いてはもらえまいかと思ってな」

佐市は、才次の顔を見た。才次も、寛も、それぞれが他の二人の顔を見回して驚いた様子を見せた。まさかの相談事に、三人は戸惑っている。

それを察して源之進は、必ず承知するであろうと、三人に「うん、うん」と軽く頷く。

女中が、いつの間にか部屋に入って来ている。それぞれの前に音を発てる事無く、お茶を出していく。

三人は、<仕事とは、一体どういう仕事だろうか?>と、思った。

彦佐衛門は、黙って聞いている三人に向かって、話を続けた。

「その船は、朝廷や近衛様も、後押しして下さっている幕府の御用船でな。異国などを見聞させるというのは、表向きで、実は・・・」と言って、少し間を置き、また静かな声で話を続けた。

「偵察船でもあるのじゃ。つまり、異国の情勢を調べて、豪商や廻船問屋達にも報せて欲しいのじゃ。そうすれば、貿易相手国の地に於いて、戦火に巻き込まれる事もなく、損害を最小限に押さえることが出来る。それに、これから先、どこの国と貿易を致せば良いか、先の見通しもつくと云うものじゃ。それらの貿易船や遣唐使船また唐船等の異国の船を、海賊等の手から守という重要な役職も兼ねている」

佐市、才次、寛は、話に聞き入っている。彦佐衛門は、出されたお茶を一口ゆっくりと啜った。

女中が、一礼して静かに部屋から出て行ったのを、皆は気づかないでいる。熱っぽく語る彦佐衛門は、皆の視線を一手に受けていた。源之進と福次郎も黙ったまま、話に聞き入っている。

テーブルの生花が、華やいでこちらに迫って来るかのように、彦佐衛門には思えた。お茶を啜って、お茶碗を静かにテーブルの上に置くと、又静かに話し出した。

「それに、もうひとつ、異国の文化を広く民に見せる為に、才能ある人材を招待して連れて来ると云うのが、その役でもある。手始めに、唐のからくり人形と人形師を招待したいと考えている」

<面白い試みだ> 以前、唐船の船長から佐市は、からくり人形のことは聞いて知っていた。その人形師を連れて来て演舞を見せるという。

才ある人材を迎える。佐市は、興味深いことだと思った。

「どうだろうか? 引き受けては、くれまいだろうか? 佐市は、どうじゃ!」

 彦佐衛門の質問が、有無を言わせぬように迫って来る。佐市は、躊躇しながら才次と寛の方を見た。視線を受けた二人は、戸惑った。才ある人材を迎えるという話には、深い興味覚えた。<いずれ自分達も答えなければならない>

「話は、充分解ったのですが、私は一体何をすれば宜しいのでしょうか?」

「栄福丸の、船長と特大使をやってもらいたい。才次は、副大使と通事で、寛には副大使兼通事と軍師をと思っておる。二人には、佐市を補佐してもらいたい。軍師は、貿易船や異国の唐船等を、海賊などの手から守る為に必要で、作戦参謀と言っても過言ではない重要な役職じゃ。どうじゃ! 働いてみる気はないか? そなた達がいてこそ、初めて成し得る事だと考えておる」

 三人の顔をゆっくり見回し、様子を伺った。彦佐衛門は、続けた。

「そなた達に万が一、何か悪いことでも起こったにせよ、家族の者の、生活の保障と身の安全は、一生保障されることになっておる」

<彦佐衛門の言う通り、ひとりでは到底、無理な話だ。才次と寛の手助けが必要だ> 佐市は、横に居る二人の顔を見た。彼らの返事が聞きたかった。先程、村上屋の女将が言っていたことが、今ようやく解って来た。

「私は、貿易船の船長として乗船することになっているのです」佐市は、もう話が決まっているのだと、困った顔を見せた。

「充分に承知しておる。廻船問屋富士木屋の了解は、既に得てある。佐市の良きように、取り計らってくれるようにとの事であった。富士木屋も、喜んで賛成してくれた」

「それなら、承知しました。お役に立てるように、働きましょう。しかし、才次や李さんが承知してくれないと、うまく行くとは、思えません」

正直に自分の気持ちを述べた。

「二人は、どうじゃ! 佐市に協力して働く気はないか?」

「私は、妻の実家で手伝っているのですが。商人とは、どう云うものか、今ようやく解って来た所で御座います」才次は、申し訳なさそうな声で言った。

「仕事にも慣れ、今が一番面白い時であろうことは、承知しておる。商人として大成することも必要であろうが、豪商足る者、皆の為に身を投げ出して働くものじゃ。今回の仕事とて、同じことぞ」彦佐衛門の説得に、源之進も小さく頷いている。

お茶を啜って、また話を続けた。

「商人として、皆の役に立つのも良かろう。しかし、新しいことに、向かって行く勇気はないか? あるであろう?」

 彦佐衛門は、寛の方に目をやった。寛も同じように考え込んでいる。

「はい、確かに、今回の仕事は、面白い試みだと思います。佐市達と一緒になってやれたら、必ず出来ると確信しております」

「そうであろう。思い切って、三人が力を合わせて、やってみたらどうじゃな?」

才次は、少し考え込んでいたが、「分かりました。佐市を補佐して、きっとお役に立ちたいと存じます」と、小さく頷いて承知した。

さっぱりとした表情であった。才次は、彦佐衛門の言は、一利あると思った。

彦佐衛門は静かな声で、寛にも聞いた。

「はい、私の夢は、貿易船を持ち遠くまで出掛けて行って交易をする事で御座います。今の話は、興味深い仕事のようですし、少し通じる所が御座います。佐市さん達が、やるのであれば、私も参加したいと思います」自分の夢を諦める決心をして言った。佐市達と一緒に働く方が、より多くの夢があるような気がしていた。

「うん。それで決まったな。源さん! 例の物を・・・・・・・」

「はっ!」源之進は、福次郎から包みを受け取ると、風呂敷包みを開いて、中の物を取り出した。

「松川佐市!」

「はい!」佐市は、源之進の呼び声に、少し戸惑いながら、大きな声で返事をした。

「朝廷から、太刀一振り。関白近衛氏から、小太刀一振り。幕府より任命書を授ける」

 太刀は少し反っていて、龍と虎の彫り物が施してある。小太刀もまた龍の彫り物があり、何れも豪華な作りである。源之進の使っている太刀とは少し趣を異にしていた。佐市は、手が震えて来た。恐れ多いことだと思った。恐縮して受け取ると、源之進と彦佐衛門に深々と頭を下げた。

「山下才次!」同じように、才次と寛は源之進から名前を呼ばれて、佐市と同じ太刀と小太刀、任命書を受け取り、源之進、彦佐衛門、福次郎にも深々と頭を下げた。

「太刀は、唐の職人にわざわざ作らせた、二つとない代物だ。心して、受け取るように」

「はい! 期待に添えるように、しっかりと働きたいと存じます」三人は、太刀を手に、また、深々と頭を下げた。

彦佐衛門は、満足そうな顔で三人を見詰めている。彼らの溌剌とした若さを、感じていた。

「さあ、これで我々の同心が、三人増えた訳じゃな。宜しく頼むぞ!」彦佐衛門は、微笑んだ。

話が終わったのを見ていたかのように、タイミング良く女将と女中が、部屋に入って来た。

「女将、話は決まったぞ!」彦佐衛門は、嬉しそうな声で言った。

「それは、よろしゅう御座いましたね、彦佐衛門様。どうだったか、気になっていたもので、落ち着かなくって・・・・・」

「そうであろうなあ。この三人とは、特に付き合いも深く、弟のように良くしてくれている。ま、案ずることはないぞ。彼らには、容易く出来る。先が楽しみじゃ!」女将を見て彦佐衛門は、豪快に笑った。

皆は、呆気に取られている。女将は、彦佐衛門の笑いに少し安心した。不安な気持ちが、取れていくように感じられるのであった。

<これからが、大変よ。しっかりと頑張るのよ!> 女将は、三人の顔を見ながら心の中で呟いた。

佐市は、そんな女将の心遣いに気づくには、まだまだ若過ぎた。

 女中が、お茶を下げ、暫らくしてまた部屋に戻って来た。

「女将! ここで良いではないか? 席を変えるのも面倒だし」彦佐衛門は、女中を見て言った。

「そうですか? それじゃ、ここに運ばせましょう。聞いての通りだから、ここに運んできて頂戴」

「はい。分かりました」女中は、頷くと静かに部屋を出て行った。

「女将も、ここへ同席してくれ」彦佐衛門は、右の手の平を上に、空いている席を指して招いた。

「同席できて、光栄だわ!」と、言った女将は、静かに椅子に腰掛けた。

「さて、栄福丸じゃが。明日、坊の浦に回航して参る手筈になっておる。もう、そなた達の船故、回航して来たら引継ぎを済ませ、改造したい所があれば遠慮なく言って欲しい。直ぐに手配致す。佐市、後は宜しく頼むぞ」

「はい、承知致しました。改造の件は、才次や李さんとも良く検討したいと存じます」

「うん! よしなに致せ」

 女中頭と女中が、手料理などを運んで部屋に入って来た。テーブルの上に並べ始めた。こおばしい香りが、部屋中に満ちていく。きっと美味いであろうことが、皆には想像できた。とても、美味そうな匂いであった。

「乗組員は、そなた達で探してくれ。遠慮は一切無用じゃ。源さん! 例の物を」と言った彦佐衛門は、源之進に、何やら大切な物を出すようにという仕草をした。源之進は頷くと、白くて丸い筒を佐市に手渡した。

「佐市、これは栄福丸の見取り図じゃ。見たら直ぐに焼き捨てるように。良いな!」

佐市は、「はい」と言って、才次にその見取り図を手渡した。

「よし、これで話は済んだ。皆の者! 今宵は、遠慮なく飲もうぞ!」

 女将は、テーブルの上に置いてあった杯を取り、彦佐衛門に手渡した。「さ、彦佐衛門様。おひとつどうぞ」杯に、酒を注ぐ女将の手は、白くほっそりとしている。

皆も、杯に酒を酌み交わした。皆の杯に、酒の注がれているのを確認した源之進は、彦佐衛門に向かって言った。

「彦佐衛門様、それでは乾杯の音頭を取らせて頂きます。皆、宜しいかな? 乾杯!」

皆は、杯を自分の目の前に置き、源之進の乾杯の音頭に合わせて、「乾杯」と言って、一気に飲み干した。

豚肉を薄切りにした手料理は、佐市の喉元を過ぎて行く。とろけるような味に思わず、「美味い!」と発していた。

寛にとって、肉料理は常食であったが、女将の手料理は、格別な味付けがなされて美味いと思った。魚を擦り潰して揚げた、『坊津揚げ』に、興味を持っていた。唐人町にも、似たような料理があったが、少し違っていて、中には細切れの豚肉が入っていた。

「女将、そろそろ、歌ったらどうじゃな?」 福次郎が、小さな声で言った。

女将は、小さく頷いて立ち上がった。

部屋の片隅に置いてあった三味線を手に取り、近くの椅子に掛けた。三味線の調弦を始める女将である。

皆は、飲むのを止めて、女将の歌うのを待っている。三味線の音に合わせて、女将は歌いだした。それは、彼らを励ます唄でもあった。皆、女将の方を振り向いている。

 

     <心の潮騒>

  飛び立つ鴎、目で追えば

    恋の思い出、遠くに浮かぶ

   流れる風に、手を添えて

      力になって、あげたいと

     女心は、波に聞く

 

  鳴き止む蝉に、声かけて

    君の優しさ、思えば永遠に

   青空高く、叫べども

      過ぎ行く時は、露と消ゆ

     女心の、はかなさよ

 

  咲きゆく花に、寄り添いし

    蝶の戯れ、香を包む

   せせらぎ清く、愛映し

      伝えてくれと、涙ぐむ

     女心は、切なくて

 

 女将の歌に、皆は聞き惚れている。いつもながら、上手いと佐市は思った。励ましてくれている歌だ、と云うことを佐市達は、ひしひしと感じていた。女将の優しさに、佐市、才次、寛の三人は心を打たれていた。

いつになく、皆は酒が進んだ。美味い酒であった。村上屋には夜更けまで、歌や話し声が聞こえ、笑いは尽きることを知らなかった。

 次の日、佐市は、眠い目を擦りながら、早起きをした。昨夜の出来事を、妻のお紗江に話す必要があった。部屋には、味噌汁の匂いが漂っている。お紗江は、夜遅く帰ってきた佐市の為に早起きをして、朝食の準備をしてくれていたのであった。

 顔を洗った佐市は、小さな机の前に正座をして、両手を合わせて胸元で祈った。胡坐をかき、出されている味噌汁を啜る。<二日酔いの朝は、味噌汁だ> すきっ腹に、味噌汁と御飯がどっしりとこたえる。お紗江の作った味噌汁も、美味い! 自慢できる味噌汁の味がした。

 お紗江が、静かに部屋に入って来た。

「お早よう!」お紗江と挨拶を、交わした。

「お早よう! 佐市さん、そのお豆腐美味しいでしょう? お豆腐屋の八ちゃんが、朝早くに持って来てくれたのよ」

「そうか、八ちゃんが、いつも新鮮な豆腐を有り難いことだな」

「ところで、昨夜の、彦佐衛門様のお話って何だったの? 刀とか、貰って来たりして」

「昨夜は、遅く帰って来て、ゆっくりと話せなかったね。実は、栄福丸と云う船の船長を頼まれてね。幕府の御用船なんだけど」

佐市は、昨夜の彦佐衛門の話を、一部始終話して聞かせた。

「そうだったの。才次さんと李さんもね」

「どうだろうか? 賛成してくれるかい?」食事を済ませた佐市は、ゆっくりと箸を置くと、お紗江に入れてもらったお茶を味わうように、ゆっくりと飲んだ。

「賛成も何も、もう決めたんでしょう?」

「そうなんだ・・・・・」

「それじゃあ、頑張るしかないわよ」お紗江は、<何を今更、聞くの?>と、言いたげな顔をして、大きくなったお腹を右手で優しく擦った。二人には、待望の二世が誕生しょうとしていた。初産である。

佐市は、「そうだよな」と言って、大きな声で笑った。お紗江に近づき、お紗江の大きなお腹を、優しく擦ってあげる。

「お前も、賛成してくれるかい? ほら、動いた。分かるんだね。賛成だと言っている」お腹の子に、向かって言った。

「まあ、勝手だこと」お紗江も、佐市を見て笑った。佐市の仕草が、とても可笑しくてならなかった。

「それで、きょう、栄福丸が回航して来るんで、受け取りに、行かなきゃならないんだ。引継ぎもあるしね」自分の座席に戻った佐市は、窓の方を見た。「そうだったの・・・・・」

窓から見える坊の浦は、素晴らしく青々として、停泊している貿易船や唐船が、くっきりと鮮やかである。 

「こんな好い天気で良かったよ。引継ぎも楽に行なえる。午後からになると思うよ」

<今頃、才次達はお美代や美麗と、栄福丸のことを話しているだろうな・・・> 才次や寛達の事を思い出していた。寛は、妻の美麗と村上屋に宿泊している。<まさか、反対されてはいまい。いやいや彼らのことだ、上手くやっている> お紗江との、束の間の幸せな一時は、音も発てず静かに過ぎて行った。

 栄福丸が回航して来たのは、思ったより早く昼前であった。佐市達は村上屋に集まって、女将を囲んで話し込んでいる。

それは、たわいもない話である。

「それで、唐へ着いたら、鄭貴さんに逢うのでしょう? 喜ぶわよ」女将は、佐市に聞いた。

「随分と長いこと会っていませんから、今から楽しみにしているんです」

「良いわね。私も会いたいわ・・・」寛の横に掛けている美麗は、言い終わると溜め息をついた。

「結婚したことは、唐船の船長に手紙を託したので、知っていると思うんだけどね。出来れば、お紗江と一緒に挨拶に行きたいのだけど、そう云う訳にもいくまい。それに、美麗も一緒に連れて行きたいけどね」言い終わると、今度は佐市が溜め息をついた。佐市の溜め息を聞いている皆は、可笑しくなって笑った。

「溜め息も、移るのね」女将は佐市を見てまた、くすっと笑った。

外の方が、何だか騒がしい。皆は、外に目をやったが、見える筈もない。女中頭が、息を切らして部屋に入って来るなり、女将に言った。

「女将さん! 大変です。船が!」

「船が、どうしたっていうの!」

「変わった船が、入って来て! 皆は、珍しがって、黒山の人集り・・・・・」

「きっと、佐いっちゃん達の船だわね」

「佐いっちゃん達の?」

「そうよ。きょう、回航して来る手筈になっているのよ。ここで、待っていたのよ」

「そうでしたの」女中頭は、納得したように言った。

「才次! 李さん! 小舟は、待たせてあるから、そろそろ出掛けようか?」

 村上屋を出た佐市達は、桟橋に向かった。通りに出た佐市は、驚いた。大勢の人達が、停泊しょうとしている栄福丸を眺めているではないか。栄福丸の姿が、三人の目に飛び込んで来た。貿易船とも船形を異にしている。唐の軍艦に似せてはあるが、少し異なっている。皆が驚くのも、無理もない話であった。

 海岸通りを通り抜けて、桟橋に着いた佐市と才次それに寛の三人は、錨を打ち終えた栄福丸を、まじまじと眺めた。

「むう〜 驚いたね、佐市」才次は、大きく息を吸って、溜め息ともつかないような息を吐いた。

「佐いっちゃん! どうぞ!」通船の船長が、叫んだ。

「やあ! 真さん。宜しく頼むよ」三人は、ひとりずつ通船に飛び乗った。

「凄いじゃないか、佐いっちゃん! あの船の船長を、今度するんだろう?」

「そういう事になったよ。真さん」

小舟は、静かに桟橋を離れて、栄福丸の方に舟首を向けた。ゆっくりと、櫓を漕ぐ音が波間に吸い込まれて行くように佐市には思える。三人は、喋ることもなく無口である。

暫らくして、小舟は栄福丸に横付けした。見張りをしていた髭面の男に、栄福丸を受け取りに来たことを告げた。左舷側に掛けられた縄梯子を登り終えると、三人は船長室に案内してもらった。髭面の男は、船長に三人が栄福丸を受け取りに来たことを告げて、無愛想に部屋から出て行った。部屋は、広々として贅沢な造りである。船長は椅子に掛けている。

「上山林蔵と言います。彦佐衛門様から、詳しい事は聞いております。佐市さん、才次さん、李さんですね。宜しく。さ、お掛け下さい」

 船長は、擦れたような声で言った。

「こちらこそ、宜しく、お願い致します」言い終わると、三人は椅子に掛けた。

「早速、引継ぎを致しましょう」

それ程、難しいことではなかったが、林蔵は引継ぎを早く済ませたかった。林蔵の話を、三人は黙って聞いている。

「後で、船内を御案内します。まだ、船員が決まっていない様子故、見張りの者を六人残して行きます」

「それは有り難いことです! 話が急だったもので、我々だけしか、いないのです」

「存じております。危険を伴う、大事なお役とのこと。私も今回、遣唐使船の船長を、彦佐衛門様に仰せつかりましてな。直ぐに、都に発たなければならないのです」

「そうでしたか」と、佐市は、彼を労った。

「さ、それでは、御案内致そう」と、言って立ち上がり、手を招いて、<船内を案内するぞ>と、いう仕草をする林蔵である。

 栄福丸の船内は、三人にとって初めて故に珍しく、ひとりでは迷子になりそうな感じに思えた。

船内を一通り見て回り、船長室に戻った佐市達は、案内してくれたお礼を言った。

林蔵は、引継ぎを済ませて、ほっとした顔をしている。乗組員のひとりに、自分の荷物を運ばせた。林蔵と乗組員達は、数隻の通船に乗って、桟橋に向かった。次の職務を控え林蔵達は、足早に上陸して行った。

「ところで、才次。栄福丸は、設計図通りに造られているかい?」

「一通り、見ただけだが、間違いないようだよ。内部の構造は、正確には分からない。案内してはもらえなかったが、秘密の部屋が隠されている筈だよ。船長は、それに気づいていないようだ。ここだ」設計図を開いて、人差し指で差し示した。

「むう〜。ここなら、誰も気づかないな」

「そうだろう。良く考えたもんだよ」

「改造したい所などあるかい?」

「今のところ、ないな」

「李さんは、どうですか?」

佐市は、黙って聞いていた寛に向かって、笑顔で尋ねた。寛は、考え込んでいたが、相手の船に乗り込む為に、梯子が欲しいと言った。才次は、設計図を指し示して、梯子は常に折り曲げられるようになっていて、滑車に因って出し入れ出来るようになっていることを説明した。

「成程! 上手く出来ているんだな」寛は、感心した声をあげた。

「李さん。他にはないですか?」「今のところないですね」

「それじゃ、改造の件は船に良く慣れてからと云うことにして、自分の部屋を見てはどうかな? これからの、住まいとなる訳だし」

才次と寛の部屋で、船長室を両側から挟むように作られてある。才次と寛は、自分の部屋に入って行った。

二人の部屋は、佐市の船長室と同じような作りである。船員室と違って、広々としている。腰掛けがひとつ収められた、小さな四角い机が丸い窓際に、長い椅子が壁際にひとつある。部屋の真ん中には、丸いテーブルがあり、三脚の椅子が中に収めてあった。ベッドには、カーテンが閉めてある。船員室は、狭くて五人部屋なのに比べ、豪勢な作りであった。

暫らくして、才次と寛は船長室に戻って来た。

「どうだった? 部屋は」

「船長室とあまり変わらないな」才次は、部屋の真ん中にある丸いテーブルの椅子に、腰掛けながら言った。

佐市も寛も才次が掛けている同じ丸いテーブルの椅子に腰掛けた。才次は、設計図を広げ、腕組みをして考え込んでいる。寛も、設計図を覗き込んだ。「成る程なっ」「才次、何が成る程なんだい?」 「いや、よく設計されている」「そうか」

「引継ぎも済んだ事だし、彦佐衛門様に報告をして、早速、船員を募集したいのだが?」佐市は、二人に向かって言った。

「二百人は、裕に積める広さがある」才次は、設計図を見て言った。

「二百人とは、多過ぎるな。三十人で充分、戦えるのではないか? どうですか? 李さん! その位が、適当だと思うのですが」

「武器も十分ありますし、その位で勝てるでしょうが、航海の方はどうでしょう?」戦力は充分だが航海の方が不安だと、心配した顔を見せる寛である。

「それなら、心配いりません。この、船の帆は大きく作られていて、少ない人数での取り扱いが可能で、かなりな速さを出すことが出来るようにもなっています」佐市は、寛を見て言った。

「戦力の予備として、二十人補足したらどうだろうか?」才次が、二人の会話の中に、割って入った。

「五十人か。それが良いだろうな。じゃ、五十人と決めよう。それに依存はないですか? 李さん! どうですか?」

「適当でしょうね」

「それから、唐人町の若者の中に乗船したいと申し出る者がいたら、是非連れて来て下さい」「分かりました」

三人の考えは、出来る限り少ない人数で、効率良く航海して効率良く戦おうということであった。その為には、武芸に秀でた乗組員が必要である。唐人町や坊の浦、泊浦など坊津には、そういう若者が大勢いた。優れた者を五十人集めようと云う訳である。

山内彦佐衛門の家に向かう為、三人は、見張り役に栄福丸を任せて、待たせておいた通船で桟橋に向かった。桟橋に着いた三人は、村上屋に立ち寄ることもせずに急いだ。彦佐衛門の家に着いた三人は、部屋に通されて、出されたお茶を飲み、彦佐衛門を待っていた。

「いや、いや、待たせたのお!」

暫らくして、彦佐衛門が、あわてた様子で部屋に入って来た。

「引継ぎは、無事に済ませたようじゃのお。改造する所などあったかな?」

「改造する所は、今のところ御座いませんが、賄いを三人、他五十人乗組員を採用したいと思いますが、彦佐衛門様は、どうお考えかと・・・」 佐市は、彦佐衛門の顔色を伺いながら言った。才次も寛も、小さく頷いた。

「たったそれだけの人数で、事足りるのか?寛! 軍師としては、どうかな?」

「はい、充分で御座います。船内は、迷路の如くあり、容易に入る事が出来ないように設計されております。入ったら必ず、中甲板に出て来るような作りになっておりますので、そこに待ち構えて斬ることが出来ますし、仮に操舵室から入られたとしても、外の甲板に出て行かなければならないようになっておりますので、出口に潜ませて、一気に斬るようにします。敵は、外で戦うしかなく、操舵室の上部から、弓を放つようにすれば、簡単に敵を撃退できます」

「うむ〜。守りは解ったとして、敵船或いは敵地へ攻撃する時は、如何致す?」

「本船には、操船要員八人、ほか戦闘要員十人、賄い三人を残し、後の三十二人で戦いに挑みます」

「三十数人で大丈夫かのお! 不安じゃな」彦佐衛門は、溜め息をついた

「大丈夫で御座います。戦いに入ったら三人がひと組みになり、三対一で戦うようにします。才次さんには二人付き、本船に残る戦闘要員ひとりが操船要員二人と組み、船長の佐市さんと私は、ひとりと云う事になります」

「成程! 勝てるなあ!」彦佐衛門は、寛を見て頷いた。寛の説明に納得した様子である。

「乗組員の採用に関しては、そち達に任す。よしなに致せ」

「はっ。分かりました」三人は、深々と頭を下げた。

「そち達は、既に幕府の役職にある身ぞ。そのことを十分心得るように。貰った太刀と小太刀はいつでも身に着けて、身の安全は自分で守るように。解ったな!」

「はい! 心得ました」三人は、また深々と頭を下げた。

「それじゃ、十分気を付けて取り計らってくれ。乗組員が揃いしだい。指令書を渡す」

 次の日、佐市と才次は、乗組員を募集すべく準備に取り掛かった。まず、坊の浦廻船問屋、富士木屋に頼み込んで、広い庭を借りることになった。庭には、弓の的を準備して、更に、広く募集を報せる為に、主要な道端に看板を立てて採用試験に備えた。

「三日後としたが、果たして集まるかなあ」佐市は、不安そうに才次を見た。

「大丈夫さ、断らなければならないような状況になるやも知れぬ。坊の浦に浮かぶ、あの栄福丸を見てみろよ。目立っているではないか。若者達の心を、捕らえぬ筈がない」

「そうであれば良いのだが・・・・・」

 募集の準備を済ませた二人は、海岸通りを歩いた。立ち止まり、浮かぶ栄福丸を眺めた。近くに停泊している貿易船が、彼らの目には弱々しく小さく見えるのは不思議であった。

 一方、博多浦へ帰る為に李寛は、妻の美麗と村上屋の応接室で、女将と会話をしながら船待ちをしていた。昼過ぎの出帆予定であった。出帆の時間が、刻々と近づいている。

「自分の夢を捨て、悔いはないのね?」

「悔いなどありません。むしろ、佐市さん達と一緒に同じ夢に向かって働けるなんて、嬉しく思います」寛は、にっこり笑って女将を見た。

「貿易船を海賊の手から守ったり、異国の情報を仕入れたりと、これからが大変よ。ま、男の仕事とも云えるわね」

 女将は、寛が一段と大きく成長したかのように思えた。『子供のようにしていた寛が、何時の間にか結婚し、今度は男の仕事に着く』月日の流れを、感じていた。

「女将さん、私達はこの辺で失礼します。お世話になりました」二人は、立ち上がってお礼を言うと、深々と頭を下げた。

「周さんや御両親にも宜しくね。美麗さんもまた、何時でも御出でなさい」「はい、ありがとう」

 村上屋を出た二人は、貿易船に乗り博多浦へ向かった。無事に博多浦に着いた寛と美麗は、直ぐ周の家に急いだ。夕日が、水平線に落ちようとしている。唐人町は、相変わらず静かであった。門を潜って、周の家に入った。

「ただ今、周さん!」寛は、大きな声で言った。

「おお! 寛か! 待ち兼ねたぞ! ま、上がれ。さあ、美麗も」周は、二人を急せ部屋へ案内した。

椅子に腰掛けた三人は、周の妻である華玲が、持って来てくれた手作りの時計草のジュースを、まず一口飲んだ。冷たいジュースが、喉元を過ぎて行く。時計草の香が、部屋中に充満して、香ばしいお香を焚いたようにも思える。奥さんの手作りジュースは、いつもながら美味いと二人は思った。

「それで、彦佐衛門様の話と云うのは、何であったのかな?」周は、喉の乾きを潤している寛に尋ねた。

事のなりを隠す事無く、詳しく周に話して聞かせた。周は腕組みをして、黙って聞いている。時々頷く周に、寛は熱っぽく話した。それは、新しい自分の夢を、何かに託すかのようでもあった。

「秋目浦、今岳、久志浦、唐人町より栄福丸に乗船したい武芸者を十名、採用するように佐市さん達と打合せております。早速、その準備に取り掛かりたいと思っているところで御座います」

「そうであったか。採用に関しては心配あるまい。ただ、武芸に秀でた人材だけで勝てるのだろうか? そうとばかりは、一概に云えないと思うのだか?」

「効率良く戦おうと云うことで、そのようになったのですが。仰る通りだと思います。十分承知しているのですが、今は、即戦力となる人材が、欲しいと思いまして」

「解っていれば良いのだが・・・・・」周は、不安そうな顔を見せた。

「周さん、心配いりません。坊津には、すばらしい若者達が揃っております」寛は、不安がる周に笑顔をみせて、ジュースをまた一口飲んだ。

その言葉に、周がようやく安心したように寛には思えた。「食事を一緒に」と言ってくれる周には、悪いと思ったが、寛と美麗は家路を急いだ。

佐市と才次は、住職龍山和尚に報告する為に興禅寺を訪れ、部屋に通されていた。暫らくして、住職は僧侶の円昌を伴って、静かに部屋に入って来た。住職は、いつもの上座に座った。円昌も佐市達の向かい側の、住職の近くに住職と同じように正座をした。

住職は、嬉しそうに佐市達を迎えた。

<どうしたんだろう、きょうは、やけに住職達の機嫌が良い> 佐市達は、気づかれないように住職の顔を眺めた。

「佐市、才次、暫らくであったのお。元気そうで何よりじゃ」

「御住職も元気そうで、何よりですね」

 住職龍山和尚に逢うのは、一ヵ月振りであった。二人が何故に尋ねて来たかは、住職には分かっていた。

「きょうは、また何用じゃな?」

「はい、実は、幕府御用船の特大使を命ぜられまして・・・・・」

「なんと、特大使をと。それはまた、重要なる役職を、佐市にのおっ」

 佐市は、彦佐衛門の話したことを、詳しく話して聞かせた。住職と円昌は、静かに聞き入っている。

「それで、栄福丸の乗組員を、募集することになり、その準備を済ませたところで御座います」

「危険な仕事のよう故、身体をお厭いなされや! それから、人の上に立つ者は、下の者達の気持ちを考えてあげるようにすることが必要じゃ。そのことは、興禅寺で学び十分に心得ていると思うが、慢る事無く自分に厳しくなければならない」

住職は、修業僧が持って来てくれたお茶をゆっくりと啜った。思えば、佐市と才次がこの興禅寺で、学んでいた日は、つい昨日のように感じられる。

佐市は、太刀を住職の前に差し出した。

「この太刀が、朝廷から授かった太刀であるのか? うむ〜 成程、見るからに立派な代物ですな。天皇の心が込められておる」住職は、佐市から渡された太刀を見て感心した様子で言った。円昌に手渡す住職である。

「この興禅寺で学んでいた佐市や才次が、太刀を身に付ける身分にまで、なったとはのお! しかも、朝廷から頂くとは。円昌殿。嬉しい限りじゃなあ!」

「そうで御座いますね。住職の感は、的中した訳ですね」円昌は、太刀を佐市に返して言った。

「そろそろ、赤飯も出来ている頃じゃな。今宵は、二人のお祝いじゃ。どうじゃ佐市、才次よ、食事などしてはいかぬか? 興禅寺での食事も、暫らく振りじゃろう?」

 佐市と才次は、頷いている。

「栄福丸の乗組員は、集まりそうかな?」住職は、佐市に尋ねた。

「集まらなかったら、興禅寺の修業僧の方に如何かと・・・・・」佐市は、冗談を言ってみた。

「おいおい、佐市よ。殺生はいかぬ。相変わらずじゃな。村上屋の女将が、いつだったか言っておったな。御住職は、こんな美味い魚をどうして食べないのかと、佐市さんが言っておったと。いつかは、御住職に有無を云わさず、食わしてやりたいと」

それを聞いた円昌は、大笑いをした。

「相変わらずじゃな。佐市さんは・・・」言い終わると又、円昌は大笑いをした。

困り果てた顔をしている住職の姿が、才次には可笑しかった。住職も才次も佐市も、円昌に釣られて笑った。

修業僧が食事を運んで部屋に入って来た。食膳が並べられた。

「さて、それでは、お二人の役職をお祝いして、頂くと致すか」住職は、静かに言った。目を瞑り、手を合わせて、航海の安全を祈った。

円昌も、同じように祈っている。佐市達は、手を合わすだけであった。住職と円昌の気持ちが、二人には痛い程良く解った。有り難いと思った。

「それじゃ、頂きます」

佐市は、それ程、美味い赤飯だとは思わなかった。赤飯が喉に詰まった。知らず知らずに、佐市の目から涙が零れていた。隠そうとしても、興禅寺での思い出と共に、涙が流れて来る。才次も、止め所なく流れる涙を、押さえることが出来なかった。

 住職や円昌には、二人の気持ちが良く解っていた。興禅寺での辛い修業と勉学に良く耐えた二人である。二人の涙には、気づかぬ振りをして食べている住職や円昌は、二人が興禅寺で学び始めた頃を思い出していた。

 酒の無い、お祝いの宴席とも思えない何とも質素なお祝いである。食事を済ませた二人は両手を合わせて、住職と円昌にお礼を言った。有り難い食事だったと感謝した。

栄福丸の乗組員募集の日は、雲ひとつ無い爽やかな朝であった。佐市と才次は、予定通り富士木屋の庭先で、時の来るのを待った。庭先には、血気盛んな若者達が押し寄せている。才次は、若者達に向かって一列に並んで待つように言った。長い行列が出来て、本通りまで達している。予想通りの行列に、二人は少し安心した。

さあ! 採用試験の時間である。二人は、ひとりずつ面接をし、剣の形と姿勢をじっくりと見て行った。なかなかの使い手であると思われる者も、中には居る。剣の形を見たら次は、弓の腕前であった。渡された弓を全部真ん中に当て、二人を唸わせる腕前の者もいる。採用試験は、順調良く進んで行った。

「どこから御出でかな?」佐市は、少々言葉の訛りが気になって聞いた。背は高くなく、不精髭を生やしている。

「はい、知覧から、採用試験の噂を聞き付けて、参上致しました」

「知覧と云えば、頴娃殿の勢力圏ではなかったかな? それはまた、どうして栄福丸に乗りたいので?」

 佐市は、才次を見ながら不思議そうに尋ねた。才次も不思議がっている。

「知覧には、頴娃の武士も数多く居るのですが、島津と争いの絶えない日が続いております。拙者は、頴娃殿の家臣で、浜崎吉兵衛と申す者に御座います」

「それで、貴行は争いを避けたいが為に、栄福丸に乗りたいと?」質問に男は、黙って頷いた。

栄福丸は、争いを避ける為の船であったが、戦いに挑んで行く船でもある。佐市は、困って才次の顔を見た。才次も、困った様子を見せている。 「それでは、形を見せてもらいたいのだが」

男は庭の真ん中で、形を披露し始めた。

「どうしたもんだろうか?」考え込んだように、静かに腕組みをすると、才次に聞いてみた。

<坊津を透きあらばと狙っている豪族達の家臣を、自分の配下にして果たして良いものだろうか? うまく行くのであろうか? >

「そうさなあ、彦佐衛門様は、いつだったか仰っていたが、頴娃の領土もいつかは、島津の物になり、頴娃殿は、島津の家臣となることだろうと。頴娃殿の家臣が、肌に合わない様子。それなら、いっそ、我らの配下に?」

坊津もまた、頴娃の領土と同じように、いつかは、豪族島津の手に落ちるとは、その頃の二人は予想もしていなかった。天皇の下に関白がいる。その下に将軍がいる。

<天下に名高い、関白近衛氏の領土である> と、安心しきっていたのであった。

「形もなかなかなもの、かなりな使い手と見た。島津の密偵ではあるまいな?」佐市は、用心に越したことはないと、才次に目で合図をした。

「恐らく密偵ではあるまい。密偵ならば、栄福丸の存在は、他の豪族達を脅かすものではないと云うことを、報せる絶好の機会。船も海賊等の手から守られると云うことを知れば、手出しはすまいて」

 剣の形が済んで、男は、ゆっくりと二人の所に近づいて来た。次は、弓の腕前を見せて頂きたいと告げた佐市は、その腕前を見た。まずまずの腕前であった。仮に作られた神殿に一礼して、二人の前に戻って来た。

「わざわざ遠い知覧の地より、御出で下さり大変で御座いましたな。見ての通り、かなりな人数で、合否は後で連絡致す故、この紙に住所と名前を書いて下され」

 男は、紙に住所と名前を書いた。書き終わると、佐市と才次に「宜しくお頼み申す」と言って、深々と一礼すると、振り向きもせずに庭から静かに立ち去って行った。

 採用試験は、まだまだ続いている。凄味を効かして声をあげる者、剣の達人と思わせるような凄腕や剣に疎い者、矢が的から大きく外れて飛んで行く者等、様々であった。

「次の者! こちらへ」

 大柄な男が、佐市達の前に出て来た。がっちりした肩に、腰は藁の紐で縛っている。佐市は、名前と出身地を聞いた。

「はい、清原の佑介と申します」男は、無愛想に答えた。どうして、栄福丸に乗りたいのか、佐市は聞いてみた。

「はい、私は、百姓をしていますが、是非とも人のお役に立てる仕事に、つきたいと思っておりました。栄福丸は、男の仕事で御座います。やらせて下さい!」

「百姓も充分、人のお役に立っているではないか? 男の仕事ではないと申すのか?」

「いえ、決してそのような。もう少し、もう少し人のお役に立てる・・・・・」男は、言葉に詰まっていた。

佐市には、男の言いたいことは充分解っていた。

「満足に、百姓の出来ない者に、何が出来よう。百姓だって、立派に人を支えているではないか? 百姓のどこが不満なのじゃ」

 男は、言葉に詰まっている。重い年貢米で百姓は、いつも泣かされている。いやにならない百姓など居る筈がなかった。男は必要以上に、食い下がった。

「やらせて下さい! きっとお役に立ってみせます。後悔させません!」

「剣の形は、そなたには無理だと思うが。弓など、扱ったことはあるのか?」

「あります。猪を仕留めた事があります」

「ほう〜。じゃあ、射ってみよ」佐市は、弓と規定の三本の矢を男に手渡して言った。

「一本でも、的を射ったら考えよう」

男は、神殿に礼をする事もなく、弓を手にして矢を射った。一本目は、大きく外れ、二本目を射った。しかし、二本目も外れた。男の手が震えているのが、佐市達にも分かる。最後の一本に、男は望みを賭けて、弓を大きく広げた。矢を放った。しかし、三本目も的から大きく外れた。男は、佐市達の所へ静かに近づいて来た。二人には、彼の気持ちは良く解っていた。 ただ、採用試験である。

「やらせて下さい! 使ってみて下さい!」 男は弓を手渡し、悲しそうな声で言った。

「剣も駄目。弓も駄目。一体何が出来ると云うのかな? 百姓の方が、合っているのではないかな? 栄福丸は、常に危険にさらされることになる。自分の身も、満足に守れないで、勤めが果たせると思うのか?」

男は、声が出なかった。最後に一言「やらせて見て下さい!」と言って、佐市と才次に深々と頭を下げた。

自分の名前と住所を紙に書き、肩を落として庭から静かに出て行った。

「才次、どうする。彼は、忠義に厚き人物と見た。剣や弓の扱いは、鍛えたら何とかなると思うのだが。即戦力とはならないが、きっと役に立ってくれる日が、必ず来ると確信した。考えを、聞かせてくれ」

「剣も駄目、弓も駄目となったら働けまい。ところが、彼は人を裏切る事はないだろう。剣だけじゃ、自分の身は守れまい。剣などの武芸は、李さんに任せて、彼を鍛えあげることにしょう」

「そうか、合格か。同じ意見だな」

 採用試験は、夕方近くまで行なわれた。

「やっと、済んだな」才次が、大きく溜め息をついて言った。大きく背伸びをして、「酒でも飲みたいな、佐市」と、言った。

「採用の合否は、明日ゆっくりと決めよう。じゃ、そうするか」佐市は、静かに言うと、才次に微笑んだ。了解である。

空には雲がかかり、どんよりとした朝であった。採用の合否を決め、乗組員四十三人の名簿を手にしていた。

きょうは、彦佐衛門に乗組員の名簿を持って、報告に行く日である。佐市は、寛と待ち合わせていた村上屋に向かった。坊の浦に浮かぶ栄福丸の姿が、やけに眩しく思える。海岸通りの石畳を歩く足取りは、軽かった。

寛も、昨夕には坊の浦に着き、打合せた通り乗組員十名の載った名簿を持って、村上屋に宿泊していた。

村上屋に着いた佐市は、女中頭に案内されて、応接室に通された。部屋に入って来た佐市を見て才次は、「今、自分も来たばかりだ」と告げた。「李さんも、もう直ぐ部屋に来るだろう」と言って、出されていたお茶を一口飲んだ。

暫らくして、お茶を飲んでいる二人の前に李寛が現れた。打合せた通りに、採用した乗組員の名前を、お互いに確認する。これで、乗組員五十三人となった。

佐市、才次、寛の三人は、山内彦佐衛門の家に向かった。

 彦佐衛門の家に着いた三人は、女中の貴代に案内されて、部屋に入った。もう既に宮田源之進は、部屋で待っていた。部屋に通された三人は、源之進に頭を下げて、下座の源之進に対する向側に正座をする。畏まって座った。

「佐市、乗組員は決まったようじゃな」

「はい、決定致しました」

「左様か。剣の使い手も、多数居るとの事。先が楽しみじゃ」

貴代が、お茶を運んで部屋に入って来た。お茶を出し終わると、また頭を深々と下げて、部屋から静かに出て行った。

「もう直ぐ、彦佐衛門様は、御出でになる筈じゃ。お茶でも頂くとするか」

 源之進の言われるままに、三人はお茶を啜った。お茶の香りと熱いお茶が、喉を過ぎて行く。お茶碗を持つ手が、少し熱かった。

何時しか、緊張は解れていた。

 暫らくして、彦佐衛門は、落ち着かない様子で部屋に入って来た。上座にゆっくりと正座をする。待っていた三人を見回した。

「待たせたな。何かと、薮用が多くてのお。朝から、動き回っておる」珍しく遅れた言い訳をする彦佐衛門である。

「ところで、乗組員も決まったようじゃな」

「はい、これが今回採用した、乗組員の名簿で御座います」言い終わると佐市は、名簿を持って彦佐衛門の前に進み出た。深々と頭を下げ、名簿をゆっくりと両手で差し出した佐市は、もう一度深々と頭を下げて、元の所に戻った。

「剣に秀でた者は、丸で、弓の得意な者は、ばつ印をして、見分けられるようにして御座います。それに加え、読み書きの得意な者と異国の言葉を操る者は、米印をしました」と、名簿に目を通している彦佐衛門を見ながら佐市は、静かな声で言った。

佐市の説明を聞きながら、「うん、うん」と頷いている。

「あい解った。それでは、佐市! 命令書を手渡す。源さん!」

「はっ! 佐市! これへ」源之進は、佐市を自分の所へ呼んだ。

佐市は、前に進み出て、源之進の膝元へ深々と頭を下げた。

畳を擦る音が、寛には異様な感じに聞こえる。武士の仕来りとは、変わっていると思った。

源之進は、持っていた命令書を手渡した。佐市は、また同じように頭を下げると、元の所に戻った。

元の場所に戻ったのを確認して、彦佐衛門は三人に向かって言った。

「今回は、奄美近海に出没している海賊達に、栄福丸の存在を知らしめて、威嚇するのが第一の目的じゃ。近いうちに、貿易船が奄美近海を航行して、坊津に入港する手筈になっておる。それらの船を守って欲しい。その後、唐へ行き、からくり人形師を連れて来て欲しい。招待したい旨の密書は、その命令書とは別の書が、そうじゃ」

 佐市は、手渡された命令書と密書を確認している。確かに密書もあった。

「渡航禁止などの命が、下される筈じゃが。何とか、説得して連れて来て欲しい」

彦佐衛門は、以前にも貿易船の船長に頼んで人形師を招待する旨伝えていたのであったが、それにはなかなか応じようとしなかった。危険を侵し、坊津に行こうなんて愚かであった。

「分かりました。何とか、説得してみましょう。誠を持って、招待しようと存じます」佐市は、力を込めて言った。

「頼んだぞ!」「はっ!」三人は、彦佐衛門に深々と頭を下げた。

その日は、乗組員を全員栄福丸に集める日であった。空は晴れ渡り、のどかである。

採用試験から一週間が、過ぎていた。桟橋の広場が集合場所である。佐市と才次、寛の三人は、早めに集合場所へと向かった。手配していた通船の船長との打ち合せを済ませて、乗組員達を待った。

 時は過ぎて、集合時間が迫っている。ぞくぞくと、乗組員達が集まって来る。

「栄福丸乗組員は、五列に並び、整列して待つように!」才次は、大きな声で言った。

騒めきの中、整列しだした。列が整っている。才次は、前から順に号令を掛けるように言った。

号令が終わった。五十三名、確かに来ている。

「佐市! いや、船長! 揃ったようです」

「そうか、それじゃ、それぞれ分譲して通船に乗り込むようにしてくれ」

「分かりました、船長!」才次は、畏まった声で、佐市に言った。親友とはいえ、今は栄福丸の船長である。

乗組員達は、それぞれ割り当てられた通船に乗り込んだ。佐市達も乗り込む。

次第に桟橋を離れて、栄福丸に近づいていく。

通船が、栄福丸に横付けしたのが見える。乗組員達は、縄梯子を伝って乗り込んで行く。海岸通りで見物している人達にとっては、乗組員達の大移動は、異様な感じに映っていた。

「凄いことになったな」と、口走る者もいる。

栄福丸に乗船した乗組員達は、上甲板でまた整列をする。それぞれに、部屋を割り当てられた。当直の者六人の名前が呼ばれ、今まで栄福丸を守ってくれていた乗組員との引継ぎが、速やかに行なわれる。

佐市は、乗組員達を前にして、大きな声で言った。「これから、我々は自らの手で、この栄福丸を守らねばならない。我々の使命は、貿易船や遣唐使船等の船を海賊などの手から守ること。異国の特異な才能を持った多くの人達を招待し、最も新しい文化を運んで来ること。情報を集めて、貿易船や坊津の人々などを、いち早く戦火から守ることである」

船長佐市は、熱っぽく続けた。

「その使命に、依存のある者は、今直ぐ栄福丸から去って欲しい。依存はないか? 無かったら皆! 心してかかってくれ!」

「はっ!」皆は、大きな声で佐市の言葉に応えた。

佐市は、才次に合図をした。

「それでは、各自、部屋に入ってくれ。当直の者以外は、自由時間とする。但し、栄福丸から離れることは出来ない。その積もりでいてくれ。止む負えない用事のある者は、船長か、副大使に相談するように。以上!」

 才次は、言い終わると、佐市を見た。佐市は、才次に頷いている。佐市と才次、寛の三人は、奄美近海を荒らし回っていると云われる海賊のことを思っていた。威嚇するだけで良いものかと考えていた。

 十日目の朝を迎えた。乗組員達は、船内の生活にも慣れ、それぞれに友人と呼ばれる者が、出来ているようであった。

 食料を満載した馬車が二騎、桟橋の広場に到着している。丁度その時、才次が栄福丸に乗船する為に通り掛かった。

「もし、栄福丸とは、どの船でしょう?」男が、才次に聞いてきた。才次は、沖に停泊している栄福丸を指差して教えると、男に「何か用事なのか?」と聞いた。

栗野と清原の百姓で、米と野菜、鶏卵等を積んで来たと言う。手配していた食料が、届いたのであった。

 そこで待つように男達に告げると、才次は通船に乗り、栄福丸に向かった。栄福丸に着いて、乗組員達に食料を積み込むように指示を出した。荷役作業をする人夫はいるのだが、密偵が紛れ込んでいるやも知れず、出来る限り栄福丸の乗組員達で作業を終えたかった。船内は、他の者には見せたくない。

乗組員達は、馬車から小船に食料を積み換えて、食料の積み込みを行なった。作業は、素早く行われた。

食料の積込みも終わり、乗組員達は、一段落している。才次は乗組員を全員、上甲板に集めた。

出帆を前に、乗組員全員の上陸を、三日間許可する旨伝えた。ここ数日、缶詰め状態である。乗組員達の歓声があがった。当直の者以外は、通船に乗り込み、次々に上陸して行った。

 出帆の挨拶に回る日である。佐市と才次、寛は、彦佐衛門の家に向かった。部屋に通された三人は、深々と頭を下げて、彦佐衛門の御機嫌を伺った。佐市は、五日後に奄美近海に向けて出帆すると云うことを告げた。

「これからが大変だと思うが、くれぐれも身体には気をつけて働くように。その太刀に恥じることの無いように、心してかかってくれ! 朝廷や幕府の期待が、かかっておる」と、彦佐衛門は、三人をゆっくりと見回して、諭すように言った。

「はい! 恥じることの無いように、心して職務を全う致したいと存じます。才次や李さんがついていてくれますので、なんとか期待に添えることが出来ると存じます」

彦佐衛門は、「うん! うん!」と、頷いている。思えば、彦佐衛門が坊津に赴任して以来の付き合いである。佐市や才次は、彦佐衛門や龍山和尚に因って、育てられたと言っても過言ではない。

<今こそ、彦佐衛門様や龍山和尚の恩に報いる時である>と、佐市と才次は思っていた。

成長した佐市と才次を見て、彦佐衛門は、初めて坊津に派遣されて来た時の事を思い出していた。慣れない、でこぼこの石畳の坂道を歩いていて、躓きそうになった時もあった。漕げない小舟の櫓を一生懸命に漕ぎ、勢い余って海に落ちて、佐市から助けあげられ、佐市に笑われた。初めて食べる豚肉に戸惑い、南蛮船のワインに驚いた。・・・いろんな失敗があった。彦佐衛門は、それらの一つ一つをゆっくりと思い出して、苦笑いをした。

 彦佐衛門にしばしの別れを告げた佐市と才次は、寛と別れて興禅寺に向かった。

 興禅寺に着いた二人は、予想した通り、いつもの住職の部屋に通された。

「これは、これは、佐市に才次。きょうは、また何の御用かな? 畏まっているようじゃが」住職は、にっこり微笑んだ。

「はい、御住職には、暫しのお別れをと」

「とうとう、出帆致すのでか?」悲しそうな顔を、二人に見せた。出帆と聞いて住職は、風呂敷包みの中から小さな仏像を取り出して、二人の前に指し出した。それは、小さな観音座像であった。

「この仏像を、栄福丸に安置なさい。きっと仏が、守って下さるでしょう」

 佐市に、「受け取るように」と言った。

「御住職! 有り難く、栄福丸に御安置致します。きっと、私達をお守り下さるでしょう」近づき、上座に正座している住職から、ゆっくりと仏像を受け取った。

 住職に深々と頭を下げた佐市は、元の所に戻った。才次も、感謝して深々と頭を下げる。

「御住職には、お体を、おいとい下さい」再度、二人は頭を深々と下げた。

「唐に、行かれるのかな?」

「奄美諸島を南下して、唐に人形師を招待すべく、航海致します」 

「左様か。佐市に、ひとつお願いがあるのじゃが・・・・・」

「何で御座いましょう」

「修業僧を三人程、同乗させてはもらえまいかと・・・・・」

「御住職、何かと思えば。それは容易いことです。三人だけで宜しいのですか?」二人は、微笑んだ。

「お願い出来ますかな?」佐市は快く承知した。

二人は、興禅寺を後にした。通い慣れている道のりである。佐市の懐に入れている観音座像の風呂敷包みが、温かく感じられる。佐市は、興禅寺で学んでいた時の、厳しかった住職に優しさを感じていた。

 栄福丸、出帆の朝を迎えた。

空には雲ひとつ無く、晴れ渡った微風の爽やかな朝であった。

出帆の夕刻までには、まだ時間がある。佐市は妻のお紗江と、生まれて来る子供の名前や将来のことなど、心おきなく話した。話は尽きることがなかった。お紗江と二人きりで食べる最後の昼食は、美味かった。おかわりをする程であった。

<お紗江の手料理とは、当分お別れか> 佐市は、食事が喉に詰まる思いである。努めて、明るく振る舞う佐市であった。

 時は、容赦なく過ぎる。短過ぎる一時に、感じられる二人であった。

 出帆の時間が、近づいていた。海岸通りには、栄福丸出帆の噂を聞き付けて、住民の多くが見送りに来ている。

家を出た佐市は、お紗江と桟橋まで肩並べて歩いた。途中二人は、村上屋に立ち寄った。

女将に挨拶を済ませた佐市は、「一緒に見送りしたい」と、言ってくれた女将や女中達と桟橋に向かった。

坊の浦には、貿易船や唐船、漁船等が停泊している。その中に、栄福丸の姿が見える。一際、輝いている。

桟橋に着いて、才次の姿が目に入った。妻のお美代と、別れを惜しんでいる。

何やら話し込んでいるのが、分かった。

「やあ! 皆揃って、見送りに来てくれたのかい? 有り難いね!」才次は、佐市達に気づいて声を掛けて来た。

予約しておいた通船の時間までには、まだ間がある。皆それぞれに思いを馳せて、話し込んでいる。

「お〜い! 佐市さん! 佐市さん!」息を切らしながら、若い僧侶が走り込んで来た。

佐市は、僧侶に振り向いた。「うむっ!」見たことのある僧侶であった。「覚念さん! 覚念さんじゃありませんか!」

「間に合ったか。間に合って良かった」覚念は、佐市達の所に、近づいて言った。

「覚念さん、一体どうなされたのですか?」

「実は、佐市さん達のことを、都で聞いてな・・・もう直ぐ、出帆する頃ではないかと・・・それで・・・佐々木才蔵殿にお願いしてな、船に便乗して参った!」

「いつ坊津へ?」と、佐市は驚いて尋ねた。

「先程、泊浦に着いてな。急いで参った」

「そうでしたか。わざわざ、お見送りに来て下さるとは、感激で御座います」

「佐市さんや才次さんの、最初の航海故、どうしても晴れ姿が見たくてな、都から飛んで参った」

「奈良の都は、如何で御座いますか?」

「相変わらずじゃが、鑑真和尚の許で手伝いをしておって、何かと忙しい毎日で・・・」

「噂は、興禅寺の御住職から、聞いておりました。大変な時だとの事。お察し致します」佐市は、覚念の労を労った。

「これは、お紗江さん、暫らくで御座いました。おお! 二世誕生ですか? むっ! それは、お目出度い!」

 覚念は、お紗江の大きくなったお腹を見て言った。お紗江のお腹に、自分の手を当て、「元気に育てよ」と、お腹の赤ちゃんを撫でる覚念である。

「二世の顔も、見てみたいのだが、興禅寺の御住職に挨拶を済ませたら直ぐに都に発たなければならんのでな。残念じゃな・・・」

「直ぐに都に戻られるのですか? 折角お会い出来ましたのに、御住職や円昌さんもがっかりなさいますよ」と、お紗江は言った。

「佐市さん! 通船を出しますよ! 宜しいですか?」通船の親爺が、佐市達を呼んだ。

「もう少し話したいのですが、覚念さん。それでは、これで失礼致します」もう少し覚念と話したかったのだが時間がない、仕方ないと思った。

「佐市さん! 才次さん! 御武運をお祈り致しておます」覚念は両手を合わせると、静かに目を瞑り頭を下げた。

「皆さん! きょうは、お見送り有難う御座いました。行って参ります!」皆に向かって大きな声で言い終わると、佐市と才次は、皆に深々と頭を下げた。

通船の親爺が、桟橋から船が離れないようにして待っている。二人は通船に乗り込んだ。舟は、桟橋から離れ遠ざかって行く。

女将は、遠ざかる舟に悲しくなった。村上屋でのことなどを思い出すと、涙が零れて止まらない。

<いろんな事あったわね。佐いっちゃん。頑張るのよ。才次さんも頑張るのよ>と、静かに栄福丸に近づいて行く舟を見て、心に呟いた。

二人の乗った舟は、栄福丸に横付けした。栄福丸に乗り込んで行く二人の姿は、高見の庭先から坊の浦を眺めている山内彦佐衛門にも見えていた。彦佐衛門の隣では、妻の譜由や女中の貴代も、栄福丸の姿を見ている。

「源さん、そろそろじゃな。佐市と才次が、縄梯子を登って行くようじゃな」

「はい、そのようですなあ」

「見物人も、相変わらず多いようじゃのお」番所の方にも、出帆を見送る者達が大勢見える。

寺ケ崎からは、興禅寺の住職と僧侶の円昌達が見送っている。

夕陽は、きらきらと輝き、水平線に落ちようとしていた。

栄福丸に着いた佐市は、乗組員全員を上甲板に集めた。航海の注意事項や、船酔いなどについて話した。皆は、真剣に佐市の話に聞き入っている。

「それでは、これより出帆致す。皆の者! 配置に着け! 李さんと才次は、船橋へ」

船橋へ着いた三人は、船首の方を向いて並んで立った。神棚には、住職から貰った観音座像が安置してある。神と仏が一緒に並んで居るなんて、アンバランスである。ところが、世界に向けて旅立とうとする佐市達の船には、似合っているようにも思えた。

丁度、程良い風が吹いている。「帆を揚げ!」と、佐市は、叫んだ。

「帆をあげ〜い!」と、才次が大きな声で復唱して、乗組員達に伝える。

メインマストの帆が揚がった。風を受けて大きく膨らむ。

「船首を沖に! 取り舵!」

「船首を沖に! 取り舵〜い!」才次は、また佐市の言葉を大きな声で復唱する。栄福丸は、次第に坊の浦から遠ざかり、沖へと動き出した。

夕陽が、栄福丸を包み込んでいる。「残りの帆をあげ〜い!」全帆が上がった。

全帆を一杯にあげた栄福丸の勇姿を、坊の浦に見せている。見物人の中からは、響動めきが起っている。少しずつ遠ざかる栄福丸に、皆は見惚れていた。

「あの佐市がのお!」住職は、目頭が熱くなっていた。住職は、佐市と始めて逢った時のことを、静かに振り返った。あれは秋の日の、雲ひとつ無い晴れた午後であった。海岸通りで、住職に逢ったまだあどけない少年は、軽く会釈をした。少年の瞳は清く、笑顔が溢れていた。

「今、お帰りかな?」と、尋ねた住職に「今、漁から帰って来たところなんです」と応えた。重そうな、篭を下げていた。

「魚は釣れたか?」と、聞くと、「釣れた」と言う。その少年は、住職に言った。「和尚さん! 生きて行く為には仕方がないんです。殺生だと思わないで下さい!」

 住職は、「分かっている」と応えた。あの時の少年が、佐市であった。

「生きて行く為には、仕方がない・・・・」彼の言葉は、「本当は、魚なんぞ釣りたくないんです」と、言っているように聞こえた。少年の本当の優しさが、分かったような気がした。

「佐市よ、これからが男の勝負じゃぞ! 命を粗末に致すでないぞ!」遠ざかる栄福丸を見て、心の中で呟いた。

 だんだん小さくなる栄福丸に涙するのは、住職だけではなかった。村上屋の女将や女中達、彦佐衛門の妻譜由に女中の貴代は、静かに頬を流れる涙を拭いている。才次の妻お美代も、佐市の妻お紗江も、暫しの別れに涙ぐんでいる。

 <佐市さん! この子の為にも、きっと戻って来てね!> お紗江は、水平線の彼方へと消えて行く栄福丸を見て、涙を拭きながら心の中で叫んだ。乗組員達は、明日をも判らぬ命である。新しい命が、もうすぐ産声をあげようとしている。明日の判らぬ命と、生まれ来る命。お紗江は、複雑な心境であった。<これもまた、定めであろうか?>

 栄福丸は、ついに見送る人達の前から姿を消した。真っ赤な夕陽は海を焦がし、波を切って力強く進む栄福丸を、覆い被さるようであった。

「面舵! 奄美に進路を向けよ!」

「面舵〜い! 奄美に進路を向け〜い」

「これより奄美に向かう」

 栄福丸は、上甲板に波を受けて進んで行く。 水平線に、夕陽はかかる。

エメラルド色の透き通る海に陽は落ちて、広がる海を真っ赤な色に染める。幾多の困難が、待ち受けていようとも知らずに栄福丸は、ただ、波を切って進んで行くだけであった。それは、何かの始まりを意味しているように思えた。

 

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